明日できること今日はせず 

身辺雑記より:樋口一葉と春日を歩く

2008・10/23

先日、アダージョの12月配布号のロケハンをした。背景の候補は2箇所。街歩きの散歩コースになっているので、事前にネットで画像を検索していたので、おおよその雰囲気は掴んでいるつもりであったが、実際いってみると、第一候補地は、ごく最近、周辺が建てかえられたようで、風情が損なわれていた。第2候補地は、保存に関しては奇跡のような状態で残っている。画面構成的に、少々平面的で難しそうだが、帰宅後、デジカメ画像をチェックの結果、第2候補地を背景に決める。ある意味では、年の瀬にぴったりの場所といえるかもしれない。 今回制作するのは第2号の向田邦子以来の女性である。人間、生きてるだけで哀しくも可笑しいところが面白いので、私にとって笑える要素が皆無な女性は、めったに作ることがない。すでに制作中の女性も、やはり、どこも笑えるところがない。しかしそれならばと、すでにイメージは決まった。


※一葉の居住跡で、使用した井戸が残っており、当初現在のポンプの代りに、つるべ式の井戸を作って合成し、一葉に井戸を使わせようと考えていた。


2008・11/06

鏑木清方の画を見ると、残された本人の写真より、よっぽど本人らしいところがさすがである。よっぽど本人らしい、ということはどういうことかというと、実際の写真とは違うということである。清方の生前には、こんな写真があったが、現在は不明である、ということはありえず、私が目にしているのと同じ写真を参考にしているはずである。私も常日頃、人体模型を制作しているわけでなし、本当のことはどうでもよい、といってはいるものの、どこまで“創作”するかは、センスの領域であろう。清方の肖像画は、ぱっと見には、目も違うし、鼻筋も唇も創作しているように見えるが、事実と違えているところにこそ、創作の秘密があるだろう。私が存命中の人物を作らないのは、本人がいるなら、本人で充分と思うからだが、とはいっても、過去の人であるほど創作の余地があり、写真が一枚しか残っていなかったりすれば、やりたい放題ではある。 私は作った御本人に会うことはかなわずとも、本人にウケることを前提としているので、生前、頭髪が薄いことを気にしていたと訊けば、時に頭髪を捏造するほどだが、清方は同時代の人物を描く場合、どう創作しているかに興味がわいている。


2008・11/11

午前中、アダージョの堀間編集長と待ち合わせ、都内某所にて撮影。背景は奇跡的に残った木造の商家である。当初第一候補はここではなく、生前 Iの住んだ場所であった。ネットで検索すると文学散歩のルートになっていて、ネット上の写真を見て決めたのだが、ロケハンに行ってみると、雰囲気台なしの新築の家が建っていて断念。こうなると悔しいので、かえって変更して良かった、というところまで持っていかないと気が済まない。 木造の商家は、家主の方にお願いし、入り口の戸を開けていただくことにした。さらに保存されていた古い暖簾を使ってくださいとのお申し出。私は事前に、古い書籍に載っていた写真を元に、暖簾の画像を2種類作っておいたのだが、ボロボロに風化しているとはいえ、普段室内保管されている暖簾を、実際玄関にかけて撮影できれば、それにこしたことはない。

※暖簾は実際には、すり切れ、穴だらけであった。


2008・11/19

夜7時に、新宿御苑のデザイナーWさんの事務所に集合し、恒例のアダージョ編集会議。ライターのFさんは、本日、次号の特集人物の石碑の汚れを落とそうとして、足元の段差に気がつかず捻挫。今日は厄日らしい。某寺に、見たことのない写真が奉納されていたという。聞く限り、私も見たことがないので、すでに頭部は完成しているが、明日にでもデータを送ってもらうことにする。この期に及んで、良いような悪いような話である。

※1Pの一葉の写真


2008・11/20

ライターのFさんから送られてきた画像を見ると、確かに私は始めてみる写真であった。親族から出たそうで、だからといって本物とは限らないが、犯罪ドラマでよくやるように既存の写真と重ねてみると、なるほど、かなり重なる。若い時代のもので、合致するのは顔の上半分で、顎のラインは未発達で重ならない。複写を重ねたのかディテールは飛んでしまって、幸か不幸か私の造形の助けになるものではなかった。


2008・11/21

私が容易に写真を信用しないのは、ただのシロウトの黒人を作ってしまったロバート・ジョンソンの一件が大きいが、昔の写真館は修正の技術がうりで、職人は修正の腕さえあれば、全国鉛筆一本で渡っていけた。よって同じ人物でイメージの異なる肖像写真が存在することにもなり、同じネガを使用してさえ、複写、修整のくり返しで多くの場合、別人になってしまう。私にとっては迷惑な話で、現に制作中の人物は同一のネガから発した、異なったイメージの肖像が数種存在し、その中から人物のイメージを嗅ぎ取っていかなければならない。夏目漱石を制作したときは、肖像写真のまっすぐな鼻筋に疑いを抱き、後にデスマスクをみて、その見事な鷲鼻に呆れたものである。肖像だけでなく、時にプロパガンダに利用するためなど、常に手を加えられ続けてきた写真だが、近頃は写真の世界もすっかりデジタル化し、カメラマン自らがデジタルによる修正をすることも多く、時代を恨むアナログ出のカメラマンは多いことであろう。(おおかたのカメラマンは絵を描くことは不得手に違いない)
報道における写真の重要性はともかく、本来、光画と訳すべき写真は、発明の瞬間から真など一度も写したことなどない、というのが本当のところであろう。しかし写真嫌いだった私が、写真を面白く感じたのは、まさにこの点であり、リアリズム写真の世界から疎まれ、廃れていった、かつてのピクトリアリズムを知ってからの話である。そして、いかにも真実を写すもの、という錯覚を利用し、もっともらしい嘘を描くのには最適と、写真作品を制作し、今に至るわけである。 だがそういいながらも、実験的にリアルに制作した古今亭志ん生のように、ホンモノとまごうが如きに作るのは本意ではない。私がすべて作った、といいたがりの私としては、亡くなった俳優の峰岸徹さんのように、「なんだ志ん生、あの店に来たのか」と思われては、泣き笑いのような状態に陥るからである。

※それまで未発見だった、R・ジョンソンの写真が某誌に発表され、それを元に作っていたらガセネタだった。


2008・11/28

入稿から配布まで1ヶ月のタイムラグがあるので、前号では紅葉を捏造したが、今回は早々に雪を降らせてみた。作ったのは女性だが、男性を作るのとは勝手が違う。男の場合は、作っていて馬鹿々しければ可笑しいし、カッコ良ければ、それだって可笑しい。哀しかったら、それがまたどこか可笑しいから、作っていても楽しいが、女性の場合は笑える要素が皆無である。私がめったに女性を作らないことと、落語で女性が主人公にならないのと似たような理由であろう


2008・12/25

背景は現存する樋口一葉が通った質屋である。年の瀬に質屋ということもあり、あまり寂しくならないよう心がけた。用事を済ませて外へ出たら、先ほどより雪が降っていて、というところか。
一葉をつくることになれば、やや右を向いたバストアップの写真を参考にすることになるが、同じ写真を参考にしながら、両極の結果を示した作品がある。一つは鏑木清方の裁縫仕事の最中に、ふと小説に想いをはせたところを描いた作品である。これは肖像写真とならんで、一葉のイメージを決定していると思われる。なにしろ南伸坊氏まで、おなじ扮装をして写真に納まっているくらいである。清方は顔の角度をわずか右に振っており、さらに目も鼻も口も“創作”してしまっている。にもかかわらず、まさに一葉と思わせるところは、さすが鏑木清方というほかはない。 もう一点はご存知5千円札である。真偽のほどは判らないが、札の肖像には、偽造をしにくくするため、髭や皺のある老人が選ばれるのが通例で、よって一葉決定は難航した、と聞いたことがある。元になった原版はコントラストが高く、ディテールが飛んでしまっている。清方とは反対に、ディテールが無い物は無く、一切創作することなく責任の持てる部分だけを拾った結果が、凍りついたお面のような5千円札なのであろう。一葉は右顔面に自信があったか、残された写真ほとんど右を向いている。私の場合はというと、背景の都合で左を向かせただけで、さらに横を向かせたのは、誰も知らないからいいや、と思ったわけではなく、傘の向きの都合である。