明日できること今日はせず 

身辺雑記より:小津安二郎と築地市場を歩く



2008・12/1

借りてきた小津安二郎の『東京暮色』(57')と初カラー作品『彼岸花』(58')を観る。両方とも食堂は珍々軒で、バアの女給は桜むつこであった。始めてみる『東京暮色』には三悪追放運動の菅原通済もでていて、売春防止法の新聞記事を読んだり普通に役者していた。 女房に逃げられた銀行員の笠智衆に、子供を連れて実家に帰っている原節子。学生との子供を堕し、踏み切りで電車に引かれて死ぬ妹の有馬稲子。暗い場面で、なぜか春先にスキップのような軽快な音楽が流れていたりする。このシナリオで普通の監督が演出していたら、物凄くつまらないであろう。この一見奇妙ともいえる小津の演出法により、最後まで面白く観る。東京から女言葉がなくなって随分になる。


2008・12/6

K本の店内は昭和20年代からそのままだが、深川木場という場所柄、昔は川並と呼ばれる、材木を筏に組んで、川を運んでいく筏師が常連だったそうである。当然そうとう荒っぽい。川並を含め、危険な仕事に携わった人々は、万が一事故に会ったとき、身体の彫り物で身元確認したものらしい。女将さんには未だ、そんな川並に伍して日々焼酎を注いでいた雰囲気が残っている。 私の記憶にも木場といえば、川に浮かんだ材木である。最近深川生まれの小津安二郎の資料を読みふけっているが、大島渚の『青春残酷物語』で筏の上にパンツを干すシーンがあり、筏が聖域である小津は怒っていたそうである。大島渚に解るわけがない。


2008・12/8

近所の古石場文化センターは、小津安二郎の地元だからだと思うが、映画に力を入れている。しょっちゅう某かの映画を上映しているが、今ロビーでは、区民が持ち寄った映画に関するコレクションが展示されている。私も些細なコレクションを提供しようと思ったが、ラナ・ターナーやキム・ノヴァクのサイン入りポートレイトはともかく、どちらかというと自慢すべきは、○○温泉芸者や尼物や海女物。その他極道系など、小学生がお絵描きしていたりするロビーで展示するのは、ばかれるポスターが大半を占めるので止めておいた。寄贈された撮影機材のアリフレックスを眺めていると、横のモニターでは、各国の映画監督が小津に対する想いを語っているビデオが流されていた。小津が演出している映像が珍しいが、さらに『晩春』の、笠智衆がリンゴを剥くシーンが流れた。磨きに磨かれたような、ほんの短いシーンに、それだけでジンときてしまった。

※小津の使用した撮影機はミッチェルという大きなカメラが有名だが、晩年はこの機種も使っていることを知り、小津の横に配することを決めた


2008・12/12

小津安二郎の誕生日であり命日。 小津安二郎像は来年2月ごろ、江東区古石場文化センターで展示の予定である。小津を1点だけということもあり、いつもより少々大きめに制作することにした。ざっと作った頭部を久しぶりにK本にもって行き常連に披露する。近所に架かる、小津の一族が作った小型の鉄橋『小津橋』の話になる。このあたりは泉鏡花の『葛飾砂子』の舞台であり、川に囲まれ橋は多い

小津は少年期に深川から三重県に移り住んだが(後年深川に戻る)松坂市には『小津安二郎青春館』というものがあり、小津の脚本を音読する会など催しているらしい。“小津さんの名作を見て脚本も読むと、きれいな日本語が身について、家族や友人との会話がなめらかになってきます。”だそうである。きれいな日本語には違いないが、あくまで標準語と違う東京弁であるから、三重県民があんなもの身につけてもしょうがないだろう。だいいち小津作品の家族は、なめらかに話しているとはいい難い。


2008・12/16

朝から小津安二郎の頭を作り、昼過ぎに古石場文化センターに、職員のNさんに借りた『東京暮色』『彼岸花』を持っていく。ついでに制作中の小津の頭を披露すると、職員の皆さん集まる。カラー作品の『お早う』『秋刀魚の味』『秋日和』。『東京物語』を借りる。 夕方、銀座青木画廊へ。来年辺り個展を、というお話。ワインをいただきながら、青木さんと渋澤龍彦、瀧口修造などの話をする。ここ数年個展をやっていないのが気になってはいたが、すぐにあれを、とは浮かばず、考えさせていただくことに。木場に着きK本に直行。閉店までの30分飲む。昨日、その前日と、刻々と変る小津を、そのたび常連に見せている。そんなことをしているうち、間もなく頭部は完成するであろう。頭さえできれば、できたも同然である。 帰宅後『秋刀魚の味』を観る。『彼岸花』の出演者が、役割変えて続編を撮ったようで、セットも使いまわしのように見える。変った着物にカラフルな食器、カラーバケツ、独特の棒読みセリフ。小津映画の中に実際放り込まれたら、宇宙人に乗っ取られた人々のように見えるであろう。なんかヘンだぞ、お前等、というわけだが、この演出法により、娘の縁談など、まったく、どうでもよい話が面白い。佐田啓二の映りの良さは、鶴田浩二と双璧に思えるが、それにしても岩下志麻の美しさ。昔、100万ドルの顎といわれていたのではなかったか。


2008・12/18

小津作品には子供を扱った『生まれてはみたけれど』(1932)という無声映画の傑作があるが、これも他愛のない子供を描いたカラー作品『お早よう』(1959)を観る。何度か観ているが、今回は小津を作っているという事情もあり、以前とは違ったところが気になる。空が青すぎるのを嫌い、コダックではなくアグファのフィルムを使い、おかげで青空が煙ったような色をしているが、この作品も色使いが美しく、デジタルリマスター修復のおかげもあり、その点も楽しい。舞台は5軒並んだ四角いマッチ箱のような建売住宅であるが、外観はもとより障子や窓、チェックの柄のカーテンや着物が多用され、小津作品の中でも、飛び切り縦横の線に溢れ、それは異様なほどである。しかし、自身の美学にのっとっていれば、不自然であろうとお構いなし、というところが、私があらためて小津を見直している点でもある。 小津の画調が変っているのは10代の頃でも一目瞭然ではあるが、そもそもストーリーが娘の縁談や老人の孤独など、子供にはどうでも良いことばかりであり、そのテンポに耐えることはできなかった。しかし、ストーリーがいかに斬新、過激であろうと、その鮮度は短く、“ニュー”と称されたとたん、腐敗は始まるものである。その点小津は、あれ以上古びようのない普遍的なストーリーを選び、そのおかげで磨きこまれ、個性的に演出された画面が、時間を経てますます輝きを帯びているように感ずるのである。 
殿山泰司の、鉛筆、ゴム紐の押し売りが可笑しいが、昭和30年代、コントで押し売りといえば、あのスタイルであった。劇中の子供を見ていて、我が家にセールスマンが来ると、ウチにはすでにあるので間にあってます、という母の背後からきまって「それウチにないよ」と本当のことをいって、日ごろのウップンを晴らしていたのを想い出した。


2008・12/20

アダージョのライター藤野さんが、門前仲町近辺を取材するというので、古石場文化センターへお連れし、その後、私の愛用自転車の1台、ワンタッチピクニカで近辺を探索してもらうことにする。 センターに戻り小津の『風の中の牝鶏』(1948)を観る。田中絹代が旦那の出征中に、子供の治療費のために売春をし、数日後に帰ってきた佐野周二が、頭では理解するが苦しむという話しである。開演時間に少々遅れ、着いたときには、田中絹代はすでに身を売った後であった。佐野が築地あたりの売春宿を訪ね、出会った売春婦と隅田川岸に腰掛けるシーンでは、昨日ピクニカで通ったばかりの勝鬨橋が映る。私は開閉していたのを覚えているが、現在開閉可能にするには10億はかかるという。古い映画を観る楽しみの一つは、かつての景色を観られることであるが、川本三郎さんは、東京でも、昭和30年代までは、戦前の風景が撮影できたといっているが、東京オリンピック以前の景色を覚えている人間には、戦前の映画だろうと馴染み深く感じることができる。逆に現在の東京の風景に関しては、私は何がどうなろうと知ったことではなく、佐野にもっとまともな職業に着けといわれ、いまさらもう無理よ、という売春婦なみの諦めようである。上映後、出てきた老人の中には、小津とおなじ白いピケ帽かぶっている人がいた。全国小津ネットワーク会議で副会長だったかをやっておられた方を紹介いただく。ポケットから取り出した小津の頭をご披露したのは、いうまでもない。 取材を終えた藤野さんをK本、K越屋にお連れし痛飲す。常に磁石を携行し、出口でいつも入ったときと逆を行こうとする藤野さんは、方向音痴について、私と互角ではないかと疑う初めての人物である。一回角をまがるだけで駅にというところまで見送る。


2008・12/22

小津が大映で撮った『浮草』を観る。大映の作品は、子供の頃から音声が入力オーバーのような気がしていた。市川雷蔵や勝新太郎、田宮二郎など、記憶の中ではセリフがすべてバリバリいっている。以前何かのおり、関係者に聞いてみたことがあるが、それは映画館固有の問題だろうということであった。確かに賛同を得たのは、小学生の頃に、大魔神やガメラを、時に舞台の上のムシロに寝転がって、一緒に観た友人だったので、そんなもんかと思ったのだが、このDVDでも他の松竹作品と違ってオーバー気味に音が割れていた。 映画は里見とん原作の作品で、小津には珍しく土砂降りの雨のシーンがあるが、これはカメラの宮川一夫が進言したらしく、結果的にはメリハリが付き良かったように思える。それにしても中村雁治郎と、杉村春子の良さがたまらず、それを観たさに続けて2回観てしまった。まだ垢抜けしていない若尾文子に、お人形のような野添ひとみ。 旅回りの一座の話だが、まさかいないだろうと、適当な役者名の幟を作って立てておいたら、実在して問題になり、小津が気を使って当初のタイトル『大根役者』を替えたという説があるが、いかにもな話である。


2008・12/27

頭部が完成すれば、もう出来たも同然なのだが、そんな時、頭を持って歩くことがクセになった。放っておいて、印象が変るのを恐れているのかもしれない。正月中も制作していようと思っているので、御茶ノ水に材料を買いに行く。
木場に着くとすでに5時過ぎ。本日はK本の本年最終日である。御常連はすでに到底追いつけない域に達していた。松竹の矢島プロデューサーと元木監督が来たので、“松竹”の小津安二郎の頭を披露したのであった。


2008・12/31

小津の戦前の無声映画『青春の夢いまいづこ』(1932)を観る。主演は“一に草人、二に宇礼雄、三、四がなくて五が馬”の江川宇礼雄。私の世代では『ウルトラQ』一の谷博士である。ドイツ人だかの血が入っていたと思うが、この時代はジャン・コクトーとルー大柴を混ぜたような顔である。就職難の時代、昭和恐慌を背景にした青春喜劇。大晦日の午前中に観るにはちょうどよい。
私はどちらかというと、より小津的と思われる戦後のカラー作品が好きである。例のセリフまわしも、戦前作品より、さらに特徴的である。アグファのカラーは美しいが、よく誤解されているのが、小津が好きな赤を、より美しく再現するからアグファを選んだ、ということである。実は、いくらか朱に傾く赤を、小津は気に入っておらず、むしろ青すぎる空を嫌い、コダックを使わなかった、というのが本当のところのようである。しかし、アグファの煙ったような青空が美しいと思えないが、小津の、自身の美学にのっとっていれば、不自然であろうとお構いなし、というところが私は気に入っているのだから良いのである。そういえば小津のおかげで、私の好きな監督1位から2位に降格してしまった大映の増村保造も、小津とは趣向が違えど、自身の美学にのっとっていれば、不自然であろうと、物凄くお構いなしな監督である。私にしても、お構いなしで、来年も捏造、創作を続けることであろう。2009年第一作は小津安二郎ということになる。


2009・1/1

2時間ほど寝て目が覚める。演芸、映画、原節子ファンのブルースベーシスト谷口さんからメールが着ていた。正月は小津にちなんだ場所を自転車で探索しようと思っていたので、ヒマだったら御一緒にサイクリングでも、と誘っていたのである。 昼過ぎに、自転車2台連ねて木場を出発。混み合う富岡八幡、深川不動の永代通りをさけ、清澄通りから相生橋を過ぎ、勝鬨橋を渡り、築地市場へ。さすがに閑散としているが、波除稲荷神社には人が並び、場外では、チェーン店の寿司屋だけが、数店開けていた。そこから築地本願寺へ。子供の頃、ここの石段で遊んだという母に先日、本願寺が何度も映る小津の『長屋紳士録』(1947)を観せた。今は無き築地川で釣りをする子供たち。遊びというより食糧確保という感じである。周辺に何もなく、焼け野原だと思ったら、ここらには爆弾は一つしか落ちてないし、焼けてもいないと母はいう。つまり、今見ると、焼け野原のようにみえるが、もともとなかったわけである。次に聖路加病院。ここも小津映画ではおなじみである。聖路加病院のおかげで、このあたりは爆撃されずにすんだ。米軍は事前に爆撃しない旨ビラを撒いたそうである。

※近所の蕎麦屋に一つ落ちたそうだが、爆弾は穴はあくが火は出ないそうで、出るのは焼夷弾。
詳しく聞くと、延焼をおそれ、強制疎開で本願寺周辺の家屋を壊したらしい。


2009・1/8

小津の全身は未だ作り始めていない。どんな服装にするか決めかねているからである。2種類作る予定だが、白いシャツはともかく、問題はカーディガンを着た場合である。私はお洒落など無縁な人間で、まったく興味がない。しかし小津安二郎などという男を作ることになって、しかもよりによってカーディガンを着せようと考えた場合、実にやっかいなことだということは解るのである。小津の写真はほとんどモノクロであり、残された資料に小津の服は残っていない。小津の実弟、信三が兄の服を受け継ぎ、大事に着用したあげく、着潰したようである。本日、古石場文化センターのシネマフェスティバルの初日。信三の奥さん、著作権継承者である小津ハマさんとお会いした。まるで小津映画の登場人物のような御婦人であり、小津の首を持って現れた私の質問に、その首を大事に包むように手にしながら、気さくに答えていただいた。そして小津愛用のマフラーの色を確認したが、カーディガンの色は読みがはずれていた。 『東京物語』上映の前の香川京子の講演を聴いて帰る。高校生の時、最初に観た東京物語は途中で耐えられずに帰ったが、今回は観すぎたので帰った。


2009・1/10

実在した人をわざわざ作るのであるから、ただリアルなだけなら、残された写真があれば良い。本人はやるはずがない、やったとしても、そんな写真は残っていない、というものにならないと意味が無いのである。小津安二郎の場合、私の頭に最初に浮かんだのは、小津が息子のように可愛がり、自宅に小津設計の、小津自身の部屋までつくった佐田啓二。その遺児である中井貴一に、演技指導する小津安二郎である。 佐田啓二は小津の亡くなった翌昭和39年、後を追うように自動車事故で亡くなったが、父親の甘さには及ばないものの、中井貴一は最近実に良く似てきている。小津の亡くなる直前、入院中の小津と並んだ幼い写真も残っている。 我ながら面白いアイディアだと思ったが、実際依頼する場合の、実務上の諸々の問題を考慮する以前、中井貴一は、はたしてシャレが通じる人物だろうか?そんなことしか頭にない私である。着想の時点で、イメージ通りの小津像が完成するのか、ということもあり、この案はとりあえず鞘に収めている次第だが、さてそうなると次の一手である。 私は特に乱歩の撮影で、撮り終わった後、どうにもしようがない品々が手元に残ったが、今回も撮影に使える確証がないまま、只今注文したところである。

すでに三島由紀夫と山本キッド選手の共演を実現させており、未だに面白いアイディアだと思えるが、何かと面倒臭そうなので、まず小津像制作に集中することにした。
インドの現行製品で、かつての日本製ホーローヤカンと同じデザインの製品


2009・1/12

昨日注文した物は、撮影に使うかどうか迷っていたものである。これがあると面白いが、知らない人には意味が判らない。しかし中井貴一も登場しないとなれば、普通にリアルになってしまう。私は耐え切れずに注文したのであった。
本日は古石場文化センターのシネマフェスティバル最終日。小津に持たせるシナリオの参考にするため、展示中のシナリオを、ケースから出して撮影させてもらう。今日は小津ハマさんと、さらに元、小津組のプロデューサーで、現、鎌倉文学館館長 山内静夫さんもみえているという。一度帰宅し、制作中の小津の頭をひっこ抜き、再び文化センターへ。注文したブツのおかげで、服装の色についての予定が変ったので、最終の『小早川家の秋』上映後、控え室のお二人に、小津の頭を見ていただきながら、服の色について質問させていただく。そこへ本日、小津について講演していた片桐はいりと、『かもめ食堂』の監督が、お二人に挨拶に来た。そうとうな小津ファンらしい。その間、私は立ち位置上、関係者のようになってしまい、バツが悪くて、小津の頭をポケットに押し込んだのであった。ところで山内さんは、服の色に対して質問した私に、最後になぜか、○○○は絶対に赤。といった。それは服のことではなく、私が撮影用に注文したブツのことである。そんなものを使うことなど、いっていないので不思議であった。


2009・1/14

撮影用に注文していた物が届く。撮影のためだけなら小さい物でよいのだが、実用的な大きめのサイズにした。用が済んだ後、また、おかしなことをやってしまった、という気分を忘れるためには、せいぜい自分で使って、買っておいて良かった。という方向に持っていくしかない。私は普段、必要をまったく感じない物なのだが・・・。しかし、小津にこれを持たせることにより“感心されるくらいなら呆れられたほうがマシ”という私のヘキは満足させることができるであろう。

私は猫舌で、熱いお茶を飲む習慣がない。しかしさすがインド製で、使う前から取っ手はずれる。


2009・1/15

小津も、あと一息で乾燥に持っていけるところまできた。 小津というと、白いYシャツとピケ帽姿で演出する姿である。しかし季節のことや、マフラーを首に巻いてみたかったこともあり、カーディガン姿にした。展示のことを考えて立たせたが、次回は、片膝を立てか、胡坐、または寝転がりと、小津といえばローアングル、の姿を作ってみたい。そのときこそYシャツ姿にしよう。 服装で躊躇したおかげで開始が遅れたので、つい朝まで作ってしまった。


2009・1/16

3、4年に一度くらいの割合で、作品制作上の目が、突然1ランク上がったような状態になることがある。それは前触れもなく不意にくるのだが、過去の作品が、急にみすぼらしく見えるのである。こんなものを当時は良いと思っていたのかとガッカリするのだが、ということは、逆にいえば、どこが駄目だかハッキリ見えるということである。先日、以前作ったディアギレフを見て、呆れかえって首を外した。実在した人物は、多くは平面のモノクロ写真の陰影で、立体を感じて作るわけだが、資料としていた写真まで違って見える。手を入れてみたら、たった数時間で見違えるできになった。なにしろ、何をすべきかハッキリ解るのだから面白い。そこで以前イメージした、ソファーに身をしずめ、美しいバレエダンサーを、ドンヨリとした眼で眺めているディアギレフを作ることにした。ダンサーは男であることはいうまでもないが、伝え聞く、ヘアートニックをプンプンさせた雰囲気を出してみたい。
想えばこんなことをずっとくり返してきたわけだが、見違えるでき、などといって、いつまでもつのだろうか。私の場合、作りたての自惚れている間に発表しないと、何もできずに終りかねない。家に遊びに来た友人だけに「どうだい、この新作。面白ェだろ?」なんていって暮らしていけたら、どんなにいいかと夢想したのは20代の頃である。ついでに押入れを開けると、4斗樽が鎮座していて、栓をひねるといつでも酒が出てくれば、さらによかったはずである。


2009・1/17

昨年から作り始め、今年に入り、2日から休みなく作っていた小津も、ようやく乾燥に入った。 生前の姿を記憶している方々は大分少なくなったであろう。小津がどんな色の服を着ていようと、どうでも良いようなものである。そもそも私は、日ごろ本当のことはどうでも良い、といっているわけである。しかし、こだわりの人小津安二郎は、こんな色は絶対着ないというのがありそうである。そう思うと、関係者が、こいつ頓珍漢なことしていやがる。といっているのが想像され、気になってくるのである。初個展のとき、私の作ったピアノの鍵盤を数えている女の子がいたが、私にとってどうでも良いことでも、おそらくピアノを弾く彼女にとって、それがピアノかどうかの重要事だったのではなかろうか。 案の定、小津は濃淡の差こそあれ、グレーの物ばかり身に着ける人で、例外的に濃い紺色のセーターが“あったかもしれない”というほどの人物であった。関係者に会って確かめるだけの価値はあっただろう。


2009・1/22

Tさんから送ってもらった小さな台本を、演出中の小津に持たせる。最後に完全に乾燥させて着彩に入りたい。

製本の心得のある知人に制作を依頼


2009・1/23

4時過ぎ、『団地妻 昼下がりの情事』を貸してくれたYさんから電話。K本からである。一区切り付けて、着彩を残すだけの小津を抱えていくと、隣に小栗康平監督作品などのプロデューサー藤倉博さん。松竹などの映画関係者は、みんなYさんが連れてきて常連になっていくのだが、藤倉さんは28日まで展示している、古石場文化センターの荷風像も見てくれたそうである。丁度いいと、小津像を披露する。誰も知らなそうな人物を別にすれば、K本で披露するのが習慣になっている。ここでウケないようでは話にならないが、どうやら無事、お話になりそうである。


2009・1/25

午前中より自転車に三脚を積み、元旦にロケハンにいった場所にでかける。昔一度撮影している場所である。たしか関西TVの『痛快エブリディ!』で撮影の様子を再現することになり、桂雀々さんと歩いた場所でもある。今でこそ、よほどの効果がないかぎり、片手にカメラ、片手に人形を持って撮影することはなくなったが、このときマイクが音を拾っていないところで、人形を国定忠治が刀をささげ持つようにするので“名月赤城山撮法”といってます。などと雀々さんに、いい加減なことをいった覚えがある。初めていったのだが、離れたところから、この妙な撮影法をTVカメラで撮られていると思うと、馬鹿々しいことでもいってなければ間が持たない。 もう一箇所の候補地を軽く撮影し、現像に出し帰宅。大相撲千秋楽を観る。朝青龍、決定戦で白鵬に勝ち、一皮向けた気がした。
現像も無事に上がる。デジカメはロケハンと、部品の撮影くらいにしか使わない。ネガをフィルムスキャナーでスキャンしている。 被写体である人物を作って背景を撮影し、この段階でまだ半分である、今回は人形と他に2つ撮影し、合成して1カットを作る。小津は構図にこだわり、こっちだあっちだなどと、湯呑み一つで粘ったらしいが、私も最後に時間一杯、粘ることになる。自分で考え、好きでやっているからいいようなものの、という話である。

聖路加国際病院


2009・1/27

小津の着彩も終わり、ピケ帽の仕上げ。薄くぴったり作るのは案外面倒である。以前一つ目を作って気に入らず、これは2つ目である。随分無駄な時間をかけてしまった、と思いながら、途中で止めた一つ目を何気なく被せてみたら、なんとこっちの方が似合うではないか。この期に及んで余計なことに気がついてしまった。結局潰さないで良かったわけだが、また仕事が増えた。原因は、初めのころと顔が変ったせいであろう。 明日はようやく小津本体の撮影である。そのさい小津が晩年、主にロケに使用したカメラと同形の、アリフレックスも撮影する予定である。それと小津にもたせる、小津組プロデューサー山内静夫さんが○○○は絶対赤。といった物も。


2009・1/28

小津安二郎像を屋上で撮影する。ここではロバート・ジョンソン、ブラインド・レモン・ジェファーソン、稲垣足穂などを撮ってきた。周囲に高い建物が少ないので、様々な光線を選ぶことができるのが良いのである。 フィルムを現像している間、構図を考えておこうとデジカメで撮影したのだが、色々やっているうち、デジカメで撮った、そのカットが良くなってしまい使うことにする。次に山内静夫さんが、撮影に使うことなどいっていないのに絶対赤、といった○○○を撮影する。周囲の住人が見たらどう思うだろうか、というほど屋上で撮るものではないが、同じ光線で撮れば合成が楽である。 パソコンに取り込んで確認し、古石場文化センターに展示してある、独立プロからの寄贈品、35ミリ映画用カメラ、アリフレックスを玄関先まで運んで撮影する。 気合を入れるため、K本にてキンミヤ焼酎を放り込んだ後、合成作業に入る。映画でいえば編集作業ということになるだろう。○○○は、このためにわざわざ購入したものだが、本来小津が台本片手に持っていたらおかしいものである。おかしいから持たせようと思ったわけだが、おかしいだけに、さりげなく扱うべきである。ところが、選んだ小津のカットを使うとなると、真っ赤なそれが前面に来てしまうことになる。はずしてみると、その方がバランスが良い。そもそも、小津ファンでなければ意味不明な物である。止めることも考えたが、一晩がかりで構図を考え、無事配置されたのであった。

ヤカンについては本文で触れられているわけでなく、ファンでなければ意味不明なので、使用については迷った。


2009・1/29


小津はなかなかのコント作家であり、計算されたギャグには笑わせられるが、下町生まれの小津にとって、ギャグを考えるのは楽しかったに違いない。私はというと、ギャグということもないが、なにがしかのギミックを加えたくなる。とくにアダージョの表紙は、作家として個展で発表するのとは異なるし、人物を1カットで表現しなければならない。都営地下鉄線を利用する、特集人物に興味がない人にも手にとってもらいたいし、深刻ぶった人物を、深刻ぶったまま通勤客に見せるわけにはいかない。なぜなら私だったらうっとおしいからである。 昨日、一晩かかって画面に押し込んだ○○○だが、小津映画に詳しくない人には、なんのことやら判らないだろうし、画的には無いほうがまとまりは良かったが、私には“普通”で我慢できず、けっきょく力技で構図を見直し、入れてしまった。
私の世代というと、昭和30年代の子供の頃、クレイジー・キャッツ、青島幸夫、さらには赤塚不二夫等の洗礼を受けた世代である。そう思うと○○○は、彼等の頭めがけて、よく落ちてきたものである。


2009・2/7

近所の古石場文化センターに借りていた小津のDVDを返しにいく前に、まだ観ていなかった『一人息子』を観る。昭和初期、不況時代の信州の田舎。進学を望む少年が教師(笠智衆)に励まされ、母親(飯田蝶子)が苦労して進学させる。十数年経ち、東京で大学を出た息子(日守新一)は、夜学の教師をやっている。当時は給料の良い仕事とはいえず、母親には仕事のこと、結婚して子供がいることも知らせていない。そこへ息子が出世していると思い込んだ母親が上京してくる。すでに田畑は売りつくし、紡績工場で掃除婦をしているが、息子には伝えていない。息子は同僚に借金し、母親を東京見物に連れて行き、すぐに金は底をつく。殺伐として埃じみた風景の中を歩く親子。母親が期待したような生き方をしておらず、がっかりしたんじゃないかと落ち込む息子。こんなつもりではなかったが、仕方がなかったんですと嘆く。しかし内心を隠して励ます母親。このあたりで、この作品を観たことを後悔しはじめる私。その晩、不甲斐ない息子を想い寝られない母親。お前がそんなことでは、何のために苦労したのか解らないじゃないかと泣く。もう観るのをやめようかと思いはじめる私。 この後母親は、なけなしの金を置いて田舎に帰っていく。息子は気持ちを改め、さらに勉強をしてがんばっていく決心をするのであった。 なんとも苦い後味の作品であるが、これは小津安二郎の責任ではなく、観る側に問題があるようである。
文化センターにいくと、明日から催される『築山秀夫 小津コレクション展』の準備中。ポスターの数々は当時の色彩を保った素晴らしい保存状態である。その他スチール、宣伝物、小津の愛用品など。 コレクションの提供者で、全国小津ネットワーク会議副会長の築山さんに、飾りつけながら説明をしていただく。小津映画にはラーメンを食べるシーンが度々登場するが、展示品の中に、使われたのと同形のどんぶりがあった。実際見ると、ただのドンブリ鉢ではなく、呉須に上絵の砥部焼きの作家物で、とても街のラーメン屋で使うような物ではない。小津のこだわりは話には聞いているが、実際見ると驚くものである。展示は3月6日まで。


2009・2/23

中央公論Adajio 13号『小津安二郎と築地市場を歩く』25日配布にあわせて、古石場文化センターの小津安二郎像展示が始まる。表紙の撮影には、下半身まで写さないので膝から下は作っていなかった。できれば搬入を数日早くといわれていたし、もっとはやく仕上げておくべきであったが、私の性格からして、すでに結果が出ていて、撮影も終えている小津を後回しにして、ディアギレフに没頭するのは判っていた。


2009・2/25

背景は聖路加(ルカ)国際病院である。この病院のおかげで周辺は爆撃を免れたが、特にこの部分は小津映画に登場した頃の姿を保っている。 小津は作品において、あらゆることにこだわった。特に有名なのは独特のローアングルであろう。セットの看板文字は自ら手描きし、壁にかかる絵画など本物の美術品を使った。撮影用小物で有名なのがヤカンである。カラフルな物が度々登場するが、『彼岸花』(1958)では小津の好きな赤い色のホーローヤカンが、ポイントとして唐突に置かれている。小津は自身の服装にもこだわったようだが、小津を作るにあたり、当時の小津組のプロデューサーで、現、鎌倉文学館館長の山内静夫さんに服装の色について伺ったところ、小津はすべてグレーにすれば間違いない、とのことであった。マフラーは時に赤いマフラーを愛用したようだが、たまたまベランダでそよぐ洗濯物が眼に入り、BVDのTシャツがマフラーに転じた。縮尺のマジックで、ペラペラのTシャツが暖かそうな布地に見える。また山内さんには、撮影にヤカンを使うことなどお伝えしていないのに「ヤカンは絶対赤」といわれたことが印象深い。横に配した撮影用カメラは、晩年ロケなどに使用したアリフレックスと同型の物で、小津コーナーがある、江東区古石場文化センターの展示品をお借りした。なお同センターでは、本日より来月25日まで、この小津像が展示される。