明日できること今日はせず 

身辺雑記より:古今亭志ん生



2008・2/17
昨夜までは、まず部屋の掃除をするつもりだったのだが、私にとって掃除や片付けは、過去を振りかえり、後ろ向きで、ネガティヴな行為と位置づけられているようで、常に前向きな私は洗濯だけ済ませ、ただちに図書館に、逃げるように向かった。 アダージョ4月号用人物の伝記、評伝、聞き書きの類を読むためだが、友人、知人の何人かに「こいつをしくじったら大変だぞ」と同じセリフで脅かされている。何がどう大変なんだか。
※噺家といえば志ん生という落語ファンは未だに多い。


3/1
ここ数日なかなかいけなかった木の加工を頼みに○○○へ。以前は電車でいったが、自転車で丁度よい距離である。以前迷ったので、自転車用に買ったポケットサイズの地図を持っていく。しかし私は私が思っている以上の方向音痴なのであった。 釣り場所を探しながら、あてもなく出かけるときは何度か通った道だったりするが、まったく学習していない。途中○○○駅があったので、軽く食事をしに入る。しばらく地図を検討するが、一枚に広げられる地図でないとページのつながりが良くわからず。そもそも自分がどちらを向いているかが判らない。結局、しばらく店内で地図を見ていたおかげで、かっこ悪くて店員に尋ねることができず、いつもの遠くから来た人のフリも使えず。 オリンピック村予定地だとか、何とか市場駅だとか、知らないうちに、訳のわからない風景になっている。しまいには東急ハンズの看板まで。東京タワーが見えたからといって、私には何の情報ももたらさない。工場の加工終了時間がせまってきたので、結局、あまりに近い範囲をうろちょろしただけで帰る。(よって何処へ行こうとしたかは書かない) K本で横で飲んでるYさんに、小沢昭一が古今亭志ん生に、お酒はやはり日本酒がお好みなんですか?と聞いたら「ビールは飲んでるとショベンになるだけだけど、酒はウンコになる」と言った話をすると、昔、なにもかも嫌になって数日酒ばかり飲んでたら、ウンコだけは出たからホントの話だと言われた。


3/4
アダージョ編集長Hさん、ライターのFさんと、都内某所にロケハンをかねての打ち合わせ。Fさんが地図を手に、目標の地域を歩く人に尋ねながら行く。さすがいつもの取材スタイルなのか、ほどなく目当ての場所が見つかる。もつ焼き屋に入り、いままでよりリアルに作った首を披露。 何年か前、活き人形展というものを大阪まで観に行ったことがある。見世物の出し物として作られた人形だったが、この類の作品は、木を見て森を見ずということか、表面にこだわるあまり、リアルな死体になっていることが多い。しかしやり過ぎてしまった、人も事も大好きな私としては興味深く観た。存外血が通っている表現もあり、昔の日本職人の志の高さに感銘を受けたものである。私の場合はというと、私が欲しいリアル感さえ出れば、実写に間違われるなどという方向は、むしろ避けたいくらいなので、粘土のディテールを残している。しかし手塚治虫、宮沢賢治とSF調が続いたので、背景も含め、意識してリアルにしてみようというわけである。もっとも、私が常用する粘土にはパルプの繊維が入っており、ある程度以上の細かい表現はできない。 男3人メートルも上がり、気がついたら方向違いの駅に。そういえば磁石まで携帯するFさん。さすがと思いつつ、実は多少、方向音痴の疑いも。
※志ん生が住んだ、なめくじ長屋近辺をロケハンするも、開発が進み、適当な店が見つからず


3/7
以前、何度か通った新木場の木工所は、久しぶりに行ったら規模が縮小され、扱っているのが銘木ばかりになっていた。今回必要なものは、塗装をしてしまうので銘木である必要はないし、反りや割れを考えると合板の方が良い。深川は木場などというところに住んでいながら、気軽に木の加工してもらえるところが思いつかず。結局、実家に帰ったついでに、昔からあるホームセンターに頼んだ 現在制作中の人物について、これをしくじったら、などと妙にプレッシャーを与えてくれた旧知のFさんに制作中の頭部を見せる。若いころ本人を観たことがあるそうだが、お墨付きを。母も独身時代、何度も観ていると知った。私としては、これ以上リアルに作ることは無理なところまで来た。あとは使っている粘土を換えるしかないだろうが、そこまでやる必要は感じず。
※火焔太鼓のフレーム部分


3/10
富岡八幡の前に止まっているタクシーの運転手の頭が、制作中の人物の頭にソックリ。 不思議なことだが、制作中の人物の“部品”を持った人物を、見つけることがよくある。それは制作中だから目に付くのだと言われるだろう。もちろん、それはあるだろうが、私も人の形ばかり作ってきた人間である。ちょっとやそっと似ているからといって驚きはしない。頻繁におきることではないが、起きるときは、はなはだしく、このタレントどもを調達してるのは誰だと、辺りを見渡したくなるほどである。凄かったのはディアギレフを作っているときだった。あんな変わったオデコや、目の垂れた人など、そういるものではない。それがもちろん、外国人を含め、あるときは毛の生え際だったり、流れ落ちるような垂れた目だったり、後姿だったりと、それぞれの部位を担当した人物が、私の目の前をうろつくのである。 こんな話をするとお前はノイローゼだよ、と思われるに違いなく、この雑記に書くだけだが。それにしてもタクシーの男。よくぞあの微妙な頭のラインを持って現れたものである。あそこには苦労したから、どれだけ似ていたことか・・・。


3/14
人形を作って撮影までしていると、自分が思いついたイメージとはいえ、妙な物を作るはめになる。今作っているのはアダージョ次号用の物で、一種の楽器である。ジャズ・ブルースの人形を作っていた頃は、楽器を作るのが苦痛で仕方がなかったものだが、つい本人が、巨大なそれを背負っているところを思いついてしまった。今回はその楽器が古びていなければ意味が無いので、せいぜい汚しているが、部品の一部を、世田谷文学館の荷風の畳でやりそこねた、お茶で煮出すというのをやってみた。例によって佃煮にしないよう気をつけながら それにしても、巨大な楽器を背負っていながら、ミュージシャンではないというのだから、次号は果たしていったい誰だ?
※火焔太鼓の房の部分。白いものを番茶で煮た後、着色。


3/17
人形に楽器などを持たせる場合、頭部を完成させ、次にそれにあわせて楽器をつくり、その後、全体にとりかかる。今回もここで、私の悪い癖が出た。はやくとりかかればいいものを、頭部と楽器という、面倒なものが終わり、あとは一挙に作るというところで、作り惜しみをするのである。TVを観たり、雑誌を眺めたりしてダラダラしてしまう。内心、作りたくてたまらないのに、わざと自分を焦らすのである。ほとんどマゾヒズムであるが、我慢の限界が来て始めてからは、大変な集中力で制作に没頭する。こんな快感を、私は他に知らないのである。もちろん、今書いているこの雑記も、焦らし作業に他ならず、こんなもの書いていないで、いい加減はやく始めろと、内心思いながら書いているのである。その場合、書いているものが駄文であればあるほど、快感が増すのだろうと考えるむきもあろうが、そこまでは計算していない。


3/19
撮影用の小物を調達するため、雨の中浅草を行く 昔と違い、風情に物足りなさを感じるようになってしまった浅草も、小雨交じりの侘しさが加わると、まだそれなりの味はある。商店街を歩いていると、若い女性が、片手を高く上げ、真剣な表情でこちらに念を送っている。女性の周りには人が集まってしまっている。暖かくなると、この辺りには変調をきたしたオジサンをよく見かけるが。と思ったら、何かの撮影で、通行人を止めているスタッフであった。通りすがりに眺めると田中邦衛。良いものを観た。 江戸川乱歩や永井荷風の撮影では、よく歩いた浅草だが、ところどころなじみのない店ができていた。それがなんだか、お江戸調の、日光江戸村のようなおかしな店ばかりで、勘違いもはなはだしい。客観性を失い、止める人もいないだろう。しかし東京に生まれ育つと、残念などという感情はまるで起きない。私にとっては、煮込みの大鍋が湯気を立てている、あの一角さえあれば結構である。
※火焔太鼓をかつぐ風呂敷用に、模様が人形の縮尺に合う手拭いを調達。


3/22
昨日は、久しぶりに煮込み屋K本店内で撮影。荷風の撮影やCDジャケット、拙著の猫写真など撮影させていただいているが、店ごと煮込んだような風情は作ろうとして作れるものではない。あまりに気に入ってしまい、寸法を測って、どこか地方でK本に似せた店を作った人までいるという。階下のフリーの映像プロデューサーYさんが手伝ってくれるというので、閉店8時の30分前に出かける。息を止めたままでも行ける近所なので準備は楽である。Yさんはすでに赤い顔をしているし、時間があるので1杯だけいただく。 こんなことは初めてなのだが、人形をどちらから撮るかが決まらず、店内の2方向から撮ることに。Yさんの仕事仲間のIさんにもライトを持ってもらう。女将さんのMさんもお疲れのことと、とっとと済まそうと進めていたが.、随分シャッターを切っている気がして、ふとカメラを見ると・・・。「ここで一回土下座してもいいでしょうか?」ということで最初から。
※店内に電球2灯。実際は午後8時過ぎの撮影だが、スローシャッターのせいで、周辺の街灯により、昼間の明かるさになったが、当初、開店前に撮影し、昼間から飲んでる志ん生を考えていた。


3/24
中央公論アダージョ4月号用の作品完成。手塚治虫、宮沢賢治と、少々無茶な設定が続いたので、今回はリアリズムをテーマとした。活き人形ではないが、人形自体にデジタル処理を加えず、どれだけリアルに作れるか試してみたのである。もっとも、これなら本人の写真を使えばいいじゃないか、となっては意味がないわけで、十分妙なことはしてもらった。フランケンシュタイン博士は怪物を作り出し、「イッツ・アライブ!」と狂喜したわけだが、狂喜こそしないが、作った私にも人間にしか見えない。


4/25 制作ノート
今号は、リアルさにこだわってみた作品である。笑いを仕事とする芸人、特に一流に限ってそうなのだが、古今亭志ん生も顔が怖い。その顔でニコリともせず、とぼけたところがたまらないわけだが、しゃべらなければただ怖いので、志ん生を表現するのに頭の大きい、デフォルメしたイラストばかりなのであろう。そこで志ん生の18番にちなみ、老人には無理のある、大きな火焔太鼓を背負ってもらうことで、可笑し味が出ないかと考えてみた。志ん生の長男、金原亭馬生は、調べてみたら、火焔太鼓が風呂敷で背負えるような物ではないと、噺を大八車で運ぶことに変えたが、志ん生は「だからお前は駄目なんだ。大きさなんてどうでもいいんだ」といったそうである。馬生の大ファンで同じく長男の私は、いたく同情したものである。父親というものは、往々にして反面教師となるものであろう。 志ん生は“一々注ぐのは面倒くせェ”とコップ酒専門であった。当然目の前にお銚子とコップを置いたのだが、飲酒をイメージする表現はいけないというお達しで削除。私の作品のせいで飲酒運転が増えてはいけないし、そのせいで惨事が起きたのに、私もついに左甚五郎の域に、などと自惚れてしまってもいけない。湯飲みなら良いというので、あとから合成したのだが、なるほど、これなら酒ではなく、水カステラに見える・・・。
※水カステラとは、家中一党禁酒の屋敷に、出入りの商人が酒を水カステラと偽って持ち込もうとする『禁酒番屋』から。


4/30
アダージョ8号の志ん生は、いつもよりリアルに作った。それは宮沢賢治、手塚治虫と、高所のSF調が続いたので、次はリアルにつくってみようという、単に思いつきだったのだが、人の感覚というものは面白いもので、常になにかを基準として物事をとらえているものなのであろう。人形がリアルだと、それに対して背景の店内が作り物めいて見えてくるものらしい。背景は作ったのか?という質問を電話やメールで、すでに5人の方から同様のご意見をいただいている。私は考えもしなかった反応なので非常に興味深い。こういった話は、荒俣宏氏の著書の中でも、もっとも面白く読んだ『帯をとくフクスケ』(中央公論新社)の中に数々のエピソードが書かれている。中でも好きな話が、帆船時代。白人の船がある島に到着するが、原住民からすると、白人や大きな船など、頭の中にないので、原住民にはそれらが知覚できないというような話であった。 一方興味や違和感を感じない人にとっては、志ん生が実物だと思って終わりであろう。中には年寄りに大きな太鼓を持たせて、無茶をしゃがる。なんて人もいるかもしれない。それもまた良しである。ここがこうなっていると、これは人間であって作り物では無いと、人が感じるポイントがある。私はそこをイタズラしているに過ぎない。見る人が未開地の原住民ではない、というのが前提であり、都営地下鉄線は、そういう人は、あまり利用しないと聞いている。