チャーリー・パーカー(2)


それにしてもチャーリー・パーカーを何度聞いても飽きないというのは、いったいどうい

うわけなのだろうか。子供の頃マンガの本をすみからすみまで読んでしまい、読むたびに

読んだ記憶がなくなれば、大人になるまでこの1冊で済むのに、などと考えた事があるが、

いくら好きな音楽も何年か聞いていれば、次の展開が解っているわけだから新鮮味はなく

なる。ところが私にとってパーカーにはそういう事がない。 だからマンガ1冊という訳に

はいかないが、私にはパーカーは数枚あれば充分なのであり、好きだというわりにはレコ

ードを持っていない。そして今だに最も聞くのは1番始めに買ったダイアル盤と、2枚目

に買ったサヴォイ盤なのである。いったい何が他のミュージシャンとちがうのであろうか。


以前、カンサスシティーのサムライたちという映画が上映され、同時にパーカーのフイ

ルムも公開されるというので喜び勇んで見に行ったことがある。今はヴィデオで見ること

ができるが、その時、はじめて動く姿が見られるというのでドキドキしながらスクリーン

を見つめた。登場したパーカーは演奏前、にこやかに司会者と会話を交わしている。私は

実在した人物の像を造る時、できればその人の声を聞いてみたい。人間性の一端がうかが

える気がするし、その人の体積を感じることができるような気もするのだ。(西瓜を叩

くのと似たようなものか?)パーカーはさすがに丹田から咽にかけて筋肉の筒が入ってい

るような声をしていた。 そしていよいよ待ちに待った肝腎の演奏シーンだが、それを見

て私はショックを受け、うなってしまった。共演のディジー・ガレスピーは楽しそうに演

奏しているのだが、パーカーはというと、演奏前と一変し、全くの無表情なのだ。その冷た

く凍りついたような表情は、私には肉体は単に才能の容れ物にすぎないことを示している

ように思え、そこにパーカーの人間ばなれした音の理由を見たような気がしたのである。

天才とは凡人のまったく及びもつかないどこかの世界から何かを持ってきて、我々に見え

る形に提示してくれる人なのではないだろうか。始めて聞いた時、妙に不気味に聞こえた

ものだが、それはこの世の物らしからぬ雰囲気を感じたからではないかと、今では思ってい

る。この世の物はいずれ酸化し、腐敗し、飽きもし、うんざりもするが、別世界の物なれ

ば、いつまでも新鮮なままという事があっても不思議はない。