明治31年(1898)8月竣工 6,172トン 3,847馬力 14.184ノット
対馬海峡でロシア艦艇(ウラジオストク艦隊)の砲撃をうけて沈没。ほとんどの兵士が船
と運命を共にした。その兵士らの遺体が、遠く通浦太越の浜に漂着。浦人は遺体をこの浜
に丁重に葬った。

「常陸丸殉難近衛後備歩兵第一連隊須知中佐以下将校同相当准士官下士兵卒635名
の為、来る20日午前7時、田安門内兵営出棺青山練兵場に於いて合同葬儀を執行す。
追って団体を以て会葬相成度向はその代表者に於いて来る15日迄にその人員申込あ
りたし。8月8日近衛師団葬儀委員」

明治37年6月15日、近衛後備歩兵第一聯隊本部、同第二大隊主力及び輜重兵第十
大隊の糧食一縦列が乗船の常陸丸が、沖の島付近でロシア艦の攻撃を受けて撃沈された。
この時、聯隊長の須知源次郎中佐は、策の施しようがないことを察し、旗手大久保正少
尉に命じて軍旗を奉焼させ、これを見届けてから自決した。 聯隊長は自決前に逸脱を図
るよう命じたが、第二大隊長以下千余名の将兵は自決又は戦死し、漂流中に漁船に救助
された下士卒は約150名であった。 

御船千鶴子の透視実験
彼女の透視能カは其の義兄に当たる清原猛雄氏の催眠術によりて誘導されたものである。
清原氏は明治三十六年から熊本市で催眠術の研究に従事して居た。或る時、氏は千鶴子
に催眠術を施し、睡遊状態に導きて、透視の出来ることを暗示したのであった。恰度、日露戦
争の際、例の常陸丸が敵の為めに撃沈された当時のことである。清原氏は彼女に催眠術を
施し、そして同船に第六師団(熊本師団)の兵士が乗り込んで居るや否やを透視することを要
求した。其時、彼女の答へは次の如くであった。
第六師団の兵士は一旦長崎を出発したけれど、途中故障ありて引き返し、常陸丸には乗り
込んで居ない。上の実験ありて後三日目に、第六師団の出征兵士から熊本の家族へ通信
があった。それによると、上の透視が全く事実と符合して居るのであった。