食べる事


小学生の頃、同級生の家でお誕生会などがあったりすると、母はヨソ様の前でガツガツ

したらみっともないと出かける前に私に食事をさせた。子供時代の習慣というのは恐ろし

い物で、今でも食事に招かれる時は、つい何かを腹に入れてから出かける。だから

「今日は朝から、何も食べないで来ました。」などといいながらベルトをゆるめている人を

見ると、なんてあさましいと思ったりするのだが、とはいうものの招いてくれた人にとっては、

そのほうが嬉しいに違いない。
 

下町育ちの母親の教育の度が過ぎたのか私は人前での食事にいくらかの恥ずかしさを

拭えないでいて、そんな訳だから、だいの大人が食べ物に対してウマイのマズイのと口

角泡を飛ばしている昨今の風潮は、野暮で恥ずかしい事に思えてしょうがないのである。

女性の場合は知らないが、男性に限って云えば、食べ物の好き嫌いはその人の人間とし

ての度量の大きさと比例していると思っている。例えばこの人はなかなか許容量のある

太っ腹な人物であるな、という人がいたとして、その人がサンマのハラワタを箸の先でチ

マチマどかしているのを見たりしてしまうと、私のその人に対するイメージはもろくも崩れ

『それほどたいしたコトはないな。』などと思ってしまうのだ。もっとも体質など諸事情があ

る場合もあるし、子供の時に飼っていたドジョウが夕飯のおかずになってしまい、それ以

来食べる事ができなくなったと”くやしそうに”語る私の友人などはその限りではなく、

まったく残念と同情する他はない。 


食べ物というものは、美味しいから食べるのではなく食べたいから食べるのであって、時

としてマズイと判っていても食べたくなる時があるものだ。冷蔵庫の中から確実に三ヶ月

以上忘れていた塩鮭がでてきた。 捨てようとゴミ袋に手をかけた時、フトこのマズイに

決まっている塩鮭の中に、今まで経験したことのない、0,1パーセントほどの旨味のよう

な物がひょっとして熟成されていやしないかと考えた。 さらにこの塩分と冷蔵状態から

して腹をこわす事はないと私の動物的カンも判断している。 結果、チャレンジ魂は十

二分に満足できたし、私に動物的カンなどないという事も判った。


セロリやパセリ、ラッキョやホワイトアスパラガスなど苦手だった物を次々と克服。そして

好物に変わっていき、ついに完熟塩鮭まで食らうという、想えば私の人間的度量も随分

と大きくなった事になる。だがそんな私も実はどうしても駄目な物が二つだけあって、コ

ーヒーと強烈にすっぱい梅干がいけない。しかしコーヒーはミルクを多めに入れれば大

丈夫だし、梅干は、さあどうぞといきなり出されることはないので、『それほどたいしたコト

はない』ことがバレないという寸法である。

日本農業新聞 JA広報通信9月号