明日できること今日はせず  

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3某日17 ベルメール

エリック・クラプトンが、ロバート・ジョンソンのカバーアルバムを出した。ネットで検索してみると小さい画像しか見られなかったが、まるで海賊版のジャケットのようでダサイ。私に依頼すれば、ロバート・ジョンソンと十字路に立って一緒に悪魔を待つこともできるし、リングサイドで二人でプライド観戦する事もできた。さらにお望みならリング上の桜庭和志にロメロスペシャルを決めさせる事さえできたのだが。 如月さんからのお誘いで、ハンス・ベルメール好きや研究者が集うという事で赤坂のバーですぺらへ。 しかし昨今の球体関節ブームはなんであろうか。球体関節とは本来、人形の客体性の象徴であると思うのだが、表現する側の欲望がやかましい。 途中から四谷シモンさん。さらに秋山祐徳太士さん登場。秋山さんの、都議選立候補を知らない世代の人が多いようであった。御本人はいたって元気。 シモンさんは私に、かつての名女形を彷彿とさせるしぐさで具体例を示しながら、静かな人形を造りたいとおっしゃる。作家の創作欲と客体である人形の間にはジレンマがあると考えていたが、静かな人形こそ最も難しい。シモンさんは私の現在住むあたりの生れだそうで、今度こちらでお会いしたいものである。


3某日16 コレクション

九州帝國大學醫學部寫眞帖なるものを入手。昭和六年の物という事だが、大判のアルバムに百枚ほどの写真が貼り付けてある。九州帝大医学部といえば『ドグラマグラ』の舞台というわけで、俄かに夢野久作制作がリアルになってきた。 東大の標本室に見学に行った事がある。私の目的は一つ目の胎児や、角の有る頭、葬儀の間にぺロッと剥いでなめした刺青などではなく、かつての巨人力士『出羽ヶ岳文治郎』1902-1950の骨格標本であった。私は大の巨人ファンである。常識サイズを超えてしまった人々の、多少の悲しみに彩られた人生は評伝を読むのも楽しい。出羽ヶ岳は死後、奥さんが呆然としている間に東大に運ばれ標本にされてしまったそうだが、いつか箱の中から牛か馬のような骨が、未整理の状態で発見されたというから期待はできなかったが、やはり展示はなかった。かわりに夢野久作の父、杉山茂丸の骨格標本を見る事ができた。死体国有論の提唱者で、ケースの中で夫婦並んでぶら下がっていた。他には首相経験者や、夏目漱石、浅沼稲次郎などの脳みそが容器の中に浮かんでいる。写真を撮っていると、白衣を着て人間の部分が浸っている容器をチャプチャプいわせて運んでいる乙女に「いけません」と怒られてしまった。ある種のマニアならツンときた場面であろう。 それにしても、なんの脈絡も無いような収集品だったが、たとえば傑物の脳には傑物たる理由が秘められていると、後世の研究のために集めておくのだろうか。 古本マニアが買ってきた古書に、嬉々としてハトロン紙をかけ書棚に収めるのを見て『その本読むの?』それはたとえ思っても、けっして口にしてはならない。


3某日15 荷風展終了

打ち上げという事で永井永光さん御提供の樽酒をいただく。昔お金を稼いだら大きな酒樽を押入れに備え、好きな時にコックを捻って酒を飲もうと思ったのを思い出した。展覧会はかなりの動員もあったようで根強い荷風人気である。市川を背景に撮影した荷風の写真作品三点を市川市に収蔵していただく事に。ほろ酔いで実家に帰り『砂の器』最終回を観る。子供が何かに耐えるシーンが出てくる映像は、人とは観たくないものであるが、母は内容も知らないのに早々に泣いていた。


3某日14 東京っ子

ラジオで団塊の世代の荒俣宏氏が、子供の頃に東京からいろいろな物がなくなっていき、これはまずいと思ったと云っていた。そこで後に東京を返せよと書いたのが『帝都物語』だそうである。私はずっと後の世代であり、東京とは壊れて無くなって行くのが当たり前で、疑問も何も、ただハナをたらしているだけであった。合成甘味料のチクロが禁止になり、近頃駄菓子が不味くなったと嘆いてはいたが、これは東京に限った事ではなかったであろう。 古い建築物が無くなっても、何も感じず、嘆いている人がいても『ヨソのお宅の事情なのに何故?』と思ってしまう。しかし、古い映画で特に東京オリンピック以前の映像を、祖父と一緒に何度も隅田川を往復した佃の渡しや、開いたり閉じたりする勝鬨橋の映像が映ると、ザワザワっと胸のあたりが騒いではいた。 川本三郎氏の講座で、『渡り鳥いつ帰る』55’の一場面、荒川放水路のシーンを観た時、ナルホド、こういう場面を観るためだけでも、映画を観る価値があるなと思ったものだが、といって以後特に観てはいない。それは生れてこの方、ことさら無関心でいる事によって、耐えていたというところがあったのではないかと、いまさらながら気付いたからである。そう思うと、『銀幕の東京』(中公新書)川本三郎著を手に、かつての東京を観る事は、はたして楽しい事かどうか、今のところ積極的に鑑賞してみようという気になれないでいる。


3某日13 講演「私の見た荷風先生」井上ひさし 市川文化会館大ホール

井上ひさし氏の荷風との遭遇談から断腸亭日乗について。 浅草はフランス座文芸部時代の話。踊り子を探すため支配人の奥さんが銭湯に張り込み、めぼしい女性がいると番台で女性の父親が酒呑みかどうか尋ねる。酒呑みの場合は酒を持って父親を説得に。98パーセント?はスカウトできたという。当時を彷彿とさせ可笑しい。 フランス座の踊り子メリー真珠がお気に入りの荷風先生。毎日カレーライスとコーヒーを届けさせるが、コメディアンの関敬六がカレーをかすめて、ウドン粉などでのばした薄いカレーを芸人仲間に売っていた話。井上氏の二度目で最後の遭遇は、舞台の袖で、芝居のピストル音を出す玉の近くに荷風先生を座らせてしまい、炸裂音とともに荷風がひっくり返った話。怒らず笑っていたそうであるから、劇場では、よほど機嫌がよかったのであろう。 断腸亭日乗は第1級の文学であり、戦争当時の日本人がどのような生き方をしていたかなど、翻訳され、世界中の人達に読んでもらえるようになる事を期待していると結ばれていた。笑いを交えながら、荷風に憧れ、かつて市川に住んだ井上氏の想いが伝わってくる講演であった。


3某日12 円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦展 江戸東京博物館

平日というのに大変な混雑。落ち着いて観る事は難しい状態であった。 昔の芸術家のイメージが、現在観てもそのまま伝わってくるというのは実に素晴らしく愉快である。応挙の思惑がリアルに感じられ、鶴も龍も虎も幽霊も、先ほど描き上がったかのようにそこに在る。観客の中に作者の応挙が紛れていてもおかしくないほど古さを感じない。食料を買いこんで1週間ほど内側から鍵をかけて眺めていたい展覧であった。


3某日11 ビデオ『からっ風野郎』60’大映

子供の時にTVで観て以来である。監督の増村保造は私の一番好きな映画監督であり、先週骨董市で”大映”のベーゴマを買ったくらいの大映ファンでもある。(野球の方はどうでもよい)増村の演出は、往々にして無茶な展開をみせるが、そこもまた魅力。後年はTVドラマの演出も手がけたようで、当時ギャグにも使われた、大映テレビ製作の『赤いシリーズ』以降、一連のドラマの”無茶な展開にセリフをハッキリ”あたりに影響がうかがわれる。 ヤクザの三島が撃たれて、倒れたままエスカレーターを上がって行くラストは憶えていたが、以外だったのは、子供の私が呆れたほどには三島の演技はひどくなかった。さすがに著名作家を迎えて常連俳優が脇を支え、当の先生もなかなかの熱演と云える。勿論上手くはないし、水谷良重より小さいのだが。 子供の目は案外厳しいという事なのだろうか。とすると同じころ、私には大人に見えたジェームス・ディーンが(後年観たジャイアンツは別にして)『イイトシシテ、ナニスネテンダヨ』と思って以来、ボロクソに云い続けているのも、考え直さなければならないのかもしれない。


3某日10 長屋

かつて荷風に『世を逃れて隠住むには適せし地』といわれた千葉県は市川市だが、私が二軒長屋に住んだのは二十年以上前になるだろうか。当時すでに相当古かったので、今でも変わらず残っていたのには驚いた。エアコンの室外機がある事以外は当時のままである 私にしつこく付きまとった犬が、ハチ公のように待っていた玄関先には、コンクリート製の流しがそのまま置いてあり、犬が開けろ々と引っ掻いた雨戸もそのままであった。 この家に美術番組のTVカメラが入った事がある。近所の人が何事かと集まって来たが、怪しいことは怪しいが、思った程には怪しくないという事が解ってもらえたようで、以後住みやすくなった憶えがある。(このさらに数年前、まだ陶芸家をめざしていた頃、男3人イノシシのせいで4キロ四方誰も住まない廃村で暮らした事があるが、赤軍ではないかと噂がたった)イラストレーターの大橋歩さんが関わられていたギャラリーで個展をと、わざわざお越し頂いたが、その時表紙にサインしていただいた平凡パンチは未だに持っている。 荷風展で、荷風の暮らしぶりを彷彿とさせる展示を見たせいか、もう一度ここに住んでみたい誘惑に駆られた。荷風全集を書棚に置いたりして。


3某日9 荷風展初日

市川市文化会館に9時に到着、雑事を済ませ、人形のライティングをなおす。レセプションの後ビデオ『永井荷風-個我の自由を求めて』を観るが、ほとんど寝ていた。川本三郎氏の講演まで時間があるので、昔住んでいたあたりを歩いてみる事にした。思い出すのは犬に2ヵ月間付きまとわれて困った事ぐらいだが、トックノトウに無くなっていると思っていた家が残っていて驚く。リンカーン生家の趣・・・。 昼食を済ませ会場に戻る。どうも私の写真が、背景にルーズソックスの女子高生を入れたりしたのに、荷風の実写と思われているようで、キャプションに工夫が必要のようである。講演『偏奇館炎上それからの荷風』を最前列で。『墨東綺譚』以降、あれだけ歩き回って、玉の井以上の小説の舞台を見いだせなかった荷風。最晩年の小岩パレス通いも悲しい。戦後の荷風の性格の変化には、六十を過ぎ、四度も空襲にあった事による恐怖症ゆえではないかという川本説。そう思うと納得がいく。御自身でもおっしゃっていたが、川本氏の著作は荷風のイメージを変えたようである。 ロビーに出ると虚無への供物展、2次会で御見掛けしたばかりの斎藤慎爾氏。五月にここで、寺山修司と中井英夫についての講演をするそうである。 川本氏に荷風のプリントを差上げ、1枚にサインをいただいて、Hさんと飲んだ後、帰宅。大根のせいで、まだ眠い。


3某日8 搬入

幼馴染とはいえ、Tの意見で何故予定を変更したのかというと、彼の助言には、常に妙な胸騒ぎがするのである。 文化会館に着き、始めて見る荷風像の設置場所は、愛用の品を配し、荷風の部屋を模した畳敷きの空間であった。幸田露伴全集や、死の直前に開いていたという、鴎外の『渋江抽斎』が収められた本棚の脇に置かれた台の上に設置される。ところがその横には荷風のオーバーコートが掛けられていた。ここに同じくコート姿の荷風像では具合が悪かったであろう。やはりコウモリに下駄で正解。 会場設営にあたるベテランらしき中年女性が荷風像を素手で持ち、それを注意すると、今度はドスンと下に落とす。頭部を外していたから良かったが、着いていたら大変な事になっていたところである。スタッフに「あのオバさんやることが雑なんで近寄らせないように」と云う。 荷風の愛用品が並んでいる狭い空間の中に一人いると、何とも云えない嬉しさに包まれる。ボロボロの座布団に文化勲章。眼鏡や傘、下駄に火鉢。すべてお馴染みの物である。 荷風の身長には諸説あるが、靴のサイズを匂いを嗅ぐかとばかりに観察し、コートの丈をみると、180センチ説は無いと思われた。170センチあるかないかというところではないだろうか。会場内のパネルに、葬儀を担当した方のコメントが掲示されていたが、伝わっている、棺に入らないので膝を曲げて納棺したという事はなかったらしい。


3某日7 大根

コートを着てバックを抱えた荷風像は展示した事がないので、市川の荷風展ではそちらを出品する事に決め、荒っぽい撮影のため剥げた所を塗りなおしていると、幼馴染のTから電話。「荷風だったら、蝙蝠傘に下駄の方だろ」「だって何回か展示してるしさ」「誰も憶えちゃいねーョ。判りゃしないって」「・・・・。」「今度展示するとき大根持たせるって云ってたろ。そっちの方が観たいよ」「お前今何時だと思ってんだよ。今日搬入だぞ」「絶対面白くないって。コートにバックじゃ地味でさー」『オ、面白くない?』「やっぱりコウモリにゲタだろーカフーはー」 いつものようにTには初日には来るなと言い含め電話を切った。個展の場合は、芳名帖に余計な事は書くなとも付け加える。実に嫌な奴である。おかげで夜中に大根を作る羽目になってしまった。これから個展などの前は電話をするなと云う事にしよう。 彼の良い所は、掲示板に書きこむ度胸はないという事である。


3某日6 ポジション

二体制作したうちの後年の中井英夫だが、当時を御存知の方から、頭頂部から後頭部にかけて髪が薄くなっていないのが惜しいという声があると訊く。そういう事なら、いずれ”散髪”する事にしよう。中井英夫はゴルゴ13のように、人に後ろに立たれることを嫌がり、時に怒ったそうであるから、本多氏撮影の最晩年を除けば、私がその状態を知るすべはなかった訳である。 今回、撮影に協力いただいたピアニストのTさんは、人に左側に立たれる事が苦手と、まるで漫才師のような事を云う。歩きながらも、お話はまずポジションを確保してからというその様子は尋常ではなく本気である。友人に同じような癖の人がいるらしいが、その場合は歩きながら執拗なポジション争いをするそうである。私は二人がクルクル回転している様子を想像している間に、どうやって決着がつくのか聞くのを忘れた。 中井英夫を容れた箱の引出しに、一枚の黒い羽根をいれておいたが、これは彼女がフィレンツェを訪れた際に手に入れた仮面に付いていたもので、仮面ごとお借りし、一本引きぬいて使わせていただいた。仮面を返すのは、喫茶店で待ち合わせてという事になるであろう。その際、私の左側に座れないよう、一番端の席に座ってしまい、後から来たTさんが困惑の表情で立ちつくすところを眺めてみたいという気がするのだが、この駄文をたまに読んでいるそうであるから、そうはさせじと時間よりはやく着いて、何食わぬ顔で一番端に座っていることであろう。


3某日5 百科事典

先日の雑記に、百科事典のボディビルの項目に三島の写真がと書いたが、本多正一氏から掲示板に『ジョン・ネイスンの『三島由紀夫ーある評伝』(新潮社)に次の一節があります。“小学館の百科事典の編集部が、「ボディビル」の項目に載せる写真にポーズしてくれないかと依頼してきた。三島は友人の久保に、それを人生でいちばんうれしかった瞬間の一つだと語ったそうである。”このときの迷(?)編集者は誰あろう、戦後短歌を演出した名編集者中井英夫でした。』とのお知らせをいただいた。 私の読書体験などたいした物ではないが、量的に一番読んでいたのは小学〜中学の頃であろう。こずかいで買える本などたかがしれている。かといって図書館は遠く、自分のテリトリーから離れたところへ一人出かけるのは、いくらか覚悟が必要といった地域、時代でもあった。そんな時に、我が家に百科事典が来るのである。今でも母は、ヒマがあると百科事典を読んでいた小学生の私を覚えているようだが、2往復、いや2往復半は読んだろうか。事典の類の面白いところは、知りたい事を調べる事ではない。端から読んで行く時にこそ面白いのである。必要もなく、予期もせぬ事柄が唐突に現れる。生まれてまだ十何年しか経たない少年の私は熱中した。ツバメの巣が食材になる事も始めて知ったし、別巻の美術の項ではシュルレアリズム絵画を飽きもせず眺めた。当時和菓子など大嫌いであった私が、母に寒天を買ってきてもらい、事典を見ながら作った事さえある。長年どうもヘンだと思っていたのだが、謎が解けた思いがした。私にとっての影響と云う意味では、『虚無への供物』どころではない。あの事典自体がワンダランズの入り口だったのだから。 


3某日4 オイルプリントワークショップ

今日も田村さんに露光器を積んだ車で迎えに来てもらう。車中、シカゴブルースを聞きながらオーティス・ラッシュがまた来日するらしいと訊く。目の前で酔っ払ったフザケタ演奏を聞いて以来、二度と観に行く気はしないが。思えばコブラセッションはオーティスの『虚無への供物』である。二度と起こらない奇跡の録音。 ワークショップは今日が最終日。オイルプリントで2時間3回は無茶だったかもしれないが、なんとか少しでも画像を出してもらいたい。 前回はインキング中にブラシにより、ゼラチン層がダメージを受けていたので、露光を多めにして、絵の具には油成分を入れずにインキングをしてもらう。この技法は、とにかくブラシのテクニックを熟練しなければならず、短時間で習得するのは困難である。しかしゼラチン紙から自製し、画像が現れたときの不思議さ面白さは、この技法によらなければならない独特のものである。 幸い皆さん、部分的にとは云え、オイルプリントらしい画像を出すことが出来た。いずれまた何らかの形で、この技法を広める機会を作りたいと考えている。


3某日3 憂国

夕方オキュルスへ。名張人外境の中相作さん、本多正一さん他数名の方が、『江戸川乱歩-小酒井不木往復書簡集』の打ち合わせ中。その後中さんを囲んで飲み会。中井英夫を肴に飲む。中さんは私の始めての作家シリーズの個展『夜の夢こそまこと展』会場でお会いしたのだが、前日来ていただいた乱歩の御長男、平井隆太郎先生に「面白いアンチャンですよ」と聞いて来ていただいたそうである。隆太郎先生が私を面白いアンチャンとは。なんだか妙に嬉しい。 昔、三島由紀夫自演の『憂国』のビデオを観た事があるが、貴重なものであった事を知る。少年時代、TVで増村保造の『からっ風野郎』を観て、三島のあまりの大根ぶりに呆れ果てたものだが、次にTVで観たのが『黒蜥蜴』で裸で剥製になっていた。小学校高学年になり、ウチに百科事典が来た。ボディビルの項目に一カット載っていたのが三島の上半身であった。当時の私に、この人の小説を読めという方が無理である。おかげで読み始めは随分遅い。私の作家シリーズの中に、三島が登場しない事が不自然な感じがし始めているが、市ヶ谷駐屯地で、あんな笑止千万な制服でなく、皮ジャン姿で演説をきめてもらいたい。


3某日2 天然色

DMが届いていないと方々からお叱りを受ける。パソコン故障のため一部のデータが見つかっていないのだが、消えてしまった可能性も。 開催中のグループ展には『虚無への供物』作中の五色不動や五色の薔薇にちなんでオイルプリントのカラー化を試みる予定であったが、搬入数日前にたった一色のオイルプリントに四苦八苦しているので、そんな事は夢のまた夢であった。海外では判らないが、少なくとも日本では誰も実現していないようである。理由の一つに、もうイイカゲンそんな面倒な事は止めてと家族に止められた人もいるであろう。 オイルプリントの4色分解カラーは、転写により色を重ねていかなければならない。そうなると、今まで作品そのものとなっていたオイルプリント自体が版になる。いつも使用している用紙は、クリームがかった版画、水彩画用紙で表面が凸凹している。その風合いが絵画的な効果を生むことにもなるのだが、版となれば余計である。より滑面のケント紙を使う事にする。気温が低いうちにゼラチン紙を作り始めなければならない。 五色といわないまでも、複雑な体色の変化を見せ始めたウチで一番古株のフラワーホーン。綺麗になってきたといっても、元々たいしたグレードの魚ではない。熱帯魚仲間のHには大漁旗を海岸で燃やしたような色だと云っておいた。 


3某日1 (秘)色情めす市場

2時過ぎにオキュルスに行くと建石修志さんがおられた。初日は作品を観られる状態ではなかったので、ゆっくり御覧のよう。今度ゆっくりお会いする事に。3時にデジタル雑誌の取材。デジタルとアナログな表現について。私の場合、フォトショップによる画像処理、3Dなどデジタルでネガを造る、しかし完成作品は時にブラシの毛がへばり付いた超アナログである。その辺りの話を。できたばかりの『新青年』趣味 特集中井英夫/森下雨村が届いていた。申し訳ない事にたった3冊とは知らず購入し、渡辺東さんのサインを頂いてしまった。 歌人の玲はる名さんがみえる。お会いするのは2度目。今日は寺山修司の人形を持ってきている。聞くとお好きだという事で寺山と並んで記念撮影。生きている歌人と並べて撮るなど、なかなかオツであった。5時に中村隆夫氏、多摩美の同僚である萩原朔美氏とみえる。3人で品川駅近くで飲むことに。萩原氏と寺山像と並んで記念撮影。想像していたより気さくな方で、私にとっては寺山にまつわる歴史上の人物でもあるが、若く見え驚く。30年も空手をやっているそうである。『(秘)色情めす市場』74’日活 監督田中登 出演時のエピソードを伺う。爆死してしまう青年役であったが、カラミが無く残念であったそうだ。名作と云われる映画だが、それにしても内容と無関係なひどいタイトルである。その他天上桟敷乱闘事件など、この際とばかりに伺え、楽しい時間を過ごす。