明日できること今日はせず  

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4某日17 マイダーリンの浅草ニコニコ大会(主催ボーイズバラエティ協会)

Tさんと田原町で待ち合わせ東洋館へ。 玉川平太郎が始まっていた。始めてみる裸の大将スタイルの人。楠美津香の着物を舞台で着て行く"逆ストリップ"見事に1曲終わるまでに着ていた。1人コントは相変わらず面白い。一番のお目当てパーラー吉松が休演で残念だったが、前田燐のマイダーリンニコニコ大会はレベルが高いので安心。 シリアルパパの財前五朗と葬儀屋のコントは笑えたし、大空なんだ・かんだの広沢虎造スタイルの浪曲ネタは美声に感心する。演芸好きTさんは最近浪曲まで足を運んでいるらしいが、確かに生を聞くとかなりの快感である。トリは前田燐・真木淳。今回は病院の院長と雇ってくれと押しかける老看護婦という設定。(前回は警官と酔っ払い)それにしても真木淳はおばあさんにしか見えずさすが。客のほとんどが御年寄りのせいか病院ネタはうける。今回は落語が少々低調であった。 いつもの通りに出かけ、夢野久作の頭を見せたりしながら外のテーブルでしばらく飲んだ後、閉店間際のスマートボールをやり、貰ったキャンデー舐めながら客がいたためしがないバーに向かう。浅草で初のトリス・バーだったそうだが、こういう店ではハイボールが飲みたくなる。10インチ盤のライオネル・ハンプトン『スターダスト』などをかけてもらう。やはり最後まで客はなし。


4某日16 デジタルネガ

近頃は大判のデジタルネガをプリンターで出力する時代になってきた。こんな事はだいたいアメリカ人が始める。 私が印刷用フィルムでオイルプリントのネガを作る事を思いついた時、出来たネガの様子から、ブラシを使うオイルプリントには充分だが、普通の銀塩プリントに使えるとは思えなかった。よって、こんな事は私しかやらないだろうと思っていたら、プリンターの田村氏からアメリカ人が80年代にこの方法ででプラチナプリントを始めていると聞く。そして後に、このアメリカ人の方法をすでに研究し、制作している日本人一派がいる事も知る。フォトショップの使い方もよく知らず、小サイズのネガしか作っていなかった私と違って、実用に耐える方法がすでに出来あがっていたのである。 プリンターでネガを作る方法を考えたのも、どうやらこのアメリカ人らしい。その方法はプリンター、フィルム共に日本の製品を使用する。エジソンに電球のフィラメントに日本製の竹を使われた時はそれほど悔しくなかったのだが。 デジタルを駆使してなおかつ銀塩でプリントできるという事は私には画期的な出来事である。今までの現場で人形を撮影する”名月赤城山撮法”では、九州”帝國”大學を背景に夢野久作の銀塩プリントは制作できなかったのである。 


4某日15 杉山茂丸

夢野久作の伝記には政界の黒幕であり、無位無官の国士として生涯を閉じた父、杉山茂丸についてかなりの頁を割くのが通例だが、茂丸の人生観とは『竹片で水をタタクと泡が出る。その泡が水の表面をフワリゝと回転して、無常の風に会つて又もとの水と空気にフツと立ち帰るまでのお慰みが所謂人生といふ奴だ。それ以上に深く考える奴がすなはち精神病者か、白痴で、そこまで考え付かない奴が所謂オツチヨコチヨイの蛆虫野郎だ。この修養が出来れば地蔵様でも閻魔大王でも手玉に取れるんだ。人生はさう深く考えるもんじやない。』(近世快人伝)茂丸の遺体は東大に献体され、骨格標本として夫婦そろって票本室に展示されていたが、頭山満らと武器を執らず、生涯国に尽くすという断指の誓いをして左手中指が欠損していたはずである。私はここにあるとは知らずただ驚き、またこの骸骨の息子を造る事になるとは夢にも思わず、こんな事なら確認しておくべきだったと後悔している。記憶では、がっしりとした骨格であった。


4某日14 地球

夢野久作というと一番目にするのが帽子を被り、煙管をくわえたヌボーッとしたポートレートである。コントラストを強めた使い方をされるので、いかにも怪奇作家というイメージである。地球とあだ名されるほど特大で長い顔だが、実際は穏やかで実直そうな顔の持ち主である。先日、ある書籍の裏表紙にある久作の横顔をみていて、その鼻の形を危うく信じるところであった。デザイナーの切り抜きがいい加減で、極端な形になってしまっているのであった。いい迷惑である。 あと見たい写真が一カットあり、それが手に入れば久作の頭部は完成するはずである。ただ、おおよそできあがり、新たに手に入った一カットでイメージが変わってしまうなどという事があるので安心はできない。 それにしても久作の奥さんは美人である。私は日本の女性の言葉では九州弁が一番と思っているのであった。


4某日13 かまいたち

昨年、小学校時代の同級生が亡くなったそうである。彼女は小学校で教師をしていたが、両親はすでに亡く、芸大でピアノを学んだが狂ってしまった兄と二人暮し。本人もノイローゼ気味で薬を服用していたらしい。浴槽内で死んでいたそうだ。 私には彼女についての記憶は2つしかない。1つは一年生の時だったか、水泳の授業中、すでに泳げた彼女に顔を水に漬ける練習をせよと云われた事。もう1つは四年生の冬。雪が積もった休み時間であった。非常階段を降りていると、下で彼女と同級生が雪合戦をしていた。雪にすべって彼女が前のめりにころんだのだが、倒れる寸前、膝の外側にナイフで切ったような傷がサッと走った。雪の上に転々と血がしたたり落ち騒ぎになったが、そのわりに彼女がポカンとした表情で、不思議な事に痛がる様子も無かった。私は彼女がポカンとしていた理由を知っていたが、誰も信じないだろうと黙っていた。


4某日12 三島休止中

三島の頭部を横目に夢野久作の制作進む。 三島の一番好きだった制服がエレベーターボーイの服だと知り、エレベーター内で銃弾を撃ち込まれて死んでいる三島を想像した。漁師の三島が漁師小屋の裏で、身体に魚網が絡まったまま銛に貫かれ死んでいる。スレートぶきの工場。地面にはガソリンが虹色に溜まっていて、アロハ姿のチンピラヤクザの三島が抗争の果てに惨殺されている。なども考えてみた。『仮面の告白』であこがれたという汚穢屋になり、汚穢にまみれてというのもなくはないが、本人がなりたくても私が造りたくない。 『烈士と呼ばれる男』を読む。著者の中村彰彦は『いわゆる三島事件の真相は、実は『森田事件』というべきものであった、と書いては言い過ぎであろうか』と書いている。「ここまで来て三島が何もやらなかったら、オレは三島を殺る」という森田の言葉に事件の印象が変わる。読後、あどけなく見えたカバー写真が違って見えた。 私が小学生のある日、少年飛行兵に関する本を読んでいた。私の父は昭和2年の生れで、戦争には行っていない。しかし同年代で戦争に行っている人がいる事を知った私は、瞬間椅子を蹴って父の前に立ちはだかり「なんで戦争に行かなかったんだよ!」子供の私はするべき事をせず、男らしくないぞと腹を立てたらしい。父はよほど驚いたか未だに覚えていて、以前、親戚の前でこのエピソードを披露されてしまった。私は忘れたフリをしたが赤面ものである。こうやって座を和ます事ができるのも生きていればこそであろう。


4某日11 女牢

我が家で生れたフラワーホーンの稚魚がHのところへ行き、かわりに居場所がないというフラワーホーンのメスが来る。Hは先の事を考えずに魚を買ってくるので、始末に困るとウチに来る。最近魚が減ったので大丈夫だと思ったが、見ると想像以上に大きく、少々ためらう。 我が家のフラワーホーンは、オスが死んでメスばかりである。メスばかりというのは最悪なわけで、生れるあてのない卵を生むし、なにより東映のスケ番シリーズや、大映の女牢シリーズの様相を呈し、その争いは熾烈かつ陰惨である。 一匹、30センチに届こうというフラワーホーンがいる。これはオスだかメスだか良く解らないヘンな魚で、小さい頃から食うこと以外に興味を示さない。交配をくり返したせいで生殖能力に欠ける場合もあるが、万が一という事もあるので一緒にして様子をみる事に。だいたい他に適当な組み合わせが無い。 三島の頭部は完成が近いと思われたが、破綻の兆候が現れ迷走を始めたので中止し、夢野久作を開始。それにしても長い顔である。その体格といい顔の長さといい、永井荷風と良い勝負。


4某日10 文学散歩

『潮騒』の舞台といえば歌島こと三重県鳥羽の神島であるが、新治と初枝が抱き合った観的哨がまだ残っているらしい。ネットで検索してみると、コンクリートで出来たそれは、荒れ果て風化しているが、書かれた昭和二八年当時からそれほど変わっていないようである。川本三郎氏は、日本人は過去の人が行った所に行くのが好きと云われるが。なるほどそうかもしれない。永井荷風もそうやって歩いたし、それを克明に残したものだから、荷風マニアは我慢できずに後を追う。『金閣寺』は中学の修学旅行でしか行った事がないが、英語の教師が外人観光客を避けるようにしていたのが可笑しかった事しか憶えていないので、改めて眺めてみたい気もする。 観的哨といえば、砲弾の着弾地点を確かめるための設備であるから、当然見晴らしは良い。三島も間違いなく眺めた景色である。四日市には三島と共に自決した森田必勝の銅像もある。三島は45まで生き、書きたい事を書き尽くしたのだから良いが、若者を止める事はできなかったのであろうか。その辺の事情を知らないので『烈士と呼ばれる男』森田必勝の物語 中村彰彦著(文芸文庫)を注文する。カバー写真を見るとあまりにもあどけない。


4某日9 鑑賞魚フェア

糠床に青カビ。白いカビは二度ほどあるが、青いのは始めて。 最近熱帯魚が次々死んでいる。テリトリーを主張する魚種のため、水槽一つに一匹の単独飼いが基本の魚ばかりなのだが、逆に過密に飼う事により、攻撃の的が絞られる事をさける混泳をしていた。しかし最近家を留守にする事が多いので、帰るたび争いに敗れた魚が浮いている。そんな中、すっかり糠床の世話を忘れてしまっていたのである。カビた部分を除き、塩や芥子を加える。 Hと船堀の江戸川鑑賞魚フェアに行く。バックの中には微妙なニュアンスを残し完成間近の三島の頭部。江戸川区といえば昔からの金魚の産地である。最終日とあって大変な混雑。目的のフラワーホーンコンテストの入賞魚などを観る。客の中には江戸川は平井在住の橘家圓蔵師匠の姿。Hがフラワーホーンのメスが欲しいというのでPへ向かう。途中見つけたペットショップに寄り、Hはネオンテトラを買う。今の我々には餌にしか見えないネオンテトラだが、家庭内サービスのため、誰が見ても可愛い水槽を一つ作らなければならないらしい。Hは家族に最近買ってくる魚がどのくらいの大きさになるのか、正直な事は云っていないであろう。何店かまわり、Hはフラワーホーン私はヴィエジャ・ビファシアータを買う。 帰宅後朝まで三島の頭部。表面的なリアルにこだわるとリアルな死体になってしまうので、ここからは写真資料は参考にしない。


4某日8 日本人人質解放

子供の頃に観た怪獣ガメラ。始めて観たのはモノクロ作品で、北極の氷の中から自動車の急ブレーキのような声を発しながら現れる初登場のシーンが印象に残る。ガメラは子供達の味方という設定で、それはシリーズの回を追うごとに拍車がかかっていくが、その分、敵役の怪獣が人を食ったり陰惨な所が大映らしく、健全な東宝映画とは一線を画していた。 二人の子供が宇宙人の人質になるという作品があった。子供を盾にした宇宙人の脅迫に地球人は屈する。命は地球より重いなどというセリフもあったかもしれない。人は毎日、交通事故とかで簡単に死んでる事を思うと妙な気はしたが、人質の子供と同年代の私は地球人の選択は当然と思えた。今の子供は可笑しくて観ていられないであろう。


4某日7 特大の日の丸

今から20年ほど前の事。三島由紀夫は造れないかと云われた事がある。当時、実在の人などほとんど造った事がなく、しかも黒人ばかり造っていたので考えられない。それにしたって、よりによって私に三島とは?と思った憶えがある。その方には住まいの事でお世話になり、紹介してくれた方に連れられ、何も知らず会社に挨拶に伺った。社内に入ると社員が一斉に直立不動。社長室には特大の日の丸をバックにその方が座っていた。昔の事ゆえ定かではないが、拳銃の話しが出た憶えがある。『どうやらモデルガンの話しではないらしい・・・。』早くそこから退出したい私であった。 今では名前も出てこないが、三島を造りながら不思議な気分とともに思い出す。消息が判るものなら三島が完成した暁には、一度見てもらいたいと思う今日この頃なのである。


4某日6 三島由紀夫開始

三島由紀夫が自殺したのは私が中学生の時であった。事件を伝えるニュースでは、怒号の中に三島の演説はかき消されていた。演説といえばハンドマイクを使うのが”常識”の時代であったので、何故使わないのだろうと思ったものである。 それはあり得ないが、仮にあの場面で、決起してしまう自衛隊員がいたらどんな事になっていたであろうか。三島の書いたシナリオは狂ってしまい、具合の悪い事になっていたはずである。声は届かず!そこできびすを返して〜というのが良いわけで、怒号の中にかき消されるのも計算のうちだったのかもしれない。 陶芸家のSさん宅に寄り、例によって持ち歩いている未完成の三島の首を披露。奥さんのMさんは、生れは神田神保町のど真ん中で、高校生の頃、後楽園ジムに通う三島をよく目撃したそうである。お隣の古書店によく顔を出したそうで、来るたび自分の本が売れているか聞いていたという。私もその古書店をなんとなく覚えているが、ごく普通の小さな古本屋だった。


4某日5 エコグラムによる性格診断

某サイトの性格、恋愛・結婚、職業適性、対人関係が判るというものである。いささか素直にやりすぎ失敗したと思うのだが、私の職業適性はというと『権力に弱いタイプであり、常に権力の支えが必要なのです。権力者に命令されて遣る仕事なら、安心して出来るのですが、そうで無い場合は、何だか不安で仕事に身が入らないのです。独創的な仕事をする事は一番無理で、裏方の整理役の様な仕事が、一番性に合っているかも知れません。』私にいまさらどうしろと云うのであろうか。恋愛・結婚、対人関係 については言わずもがなであった。 確かに私は、たとえば権力者に命令されていない中井英夫を完成させて一服している時、自身が創り出した怪物が暴れまわってる声を遠くに聞く、フランケンシュタイン博士のような気分に陥るのである。ただここが、コンピューターには計り知れない人間心理の複雑なところであろうが、そんな時に実は快感物質がガマの油のように、私の脳内に溢れ出ているのである。やってはいけない事は楽しく、身体に悪いものは美味しい。不安や自己嫌悪までも快楽に換えてしまう人間の不思議。そこまでプログラムされていなければ人様を診断など笑止である。 しかし、と云う事は、それにより導き出される現実は正反対でも、性格診断としては当たっているという事なのであろうか?私は大吉がでるまでオミクジを引き続ける人間である。2回目にはせめて、一番性に合ってない整理役からは抜け出したい。


4某日4 1日

市川市文化部の方から展示した写真を受け取る。市川に置いてきた3点はどこかに展示されるらしい。ふと、荷風について撮っていない場面がある事に気付く。荷風が訪れ気に入って住むことにした、かつての市川のような風景。田舎道に小さな小川が流れていたりするヒナタくさい所。しかしいざ撮ろうと思うと具体的な場所が浮かばない。いずれそんな風景の中で撮る事にする。 そろそろ丸く収まるかと思えた作家シリーズだが、中井英夫を造ったせいで、丸が変形してしまって、コレがあるならアレもという感じになっている。そこで候補を3人考えてみた。いっその事、3人一緒に始めた方が完成も早いだろう。 詩人の会田綱雄が鉛筆と水彩で描いた裸婦デッサンを壁にかける。『切れ味のいい刺身包丁がほしい 鰹を一匹 中落ちまで器用にさばいてみせると女がいう やさしいみぞおちを出刃で突つかれた思い出のある』切りぬきが貼りつけてある。


4某日3 海と毒薬2

第二次大戦中最も猟奇的とされる生体解剖事件。上坂冬子の『生体解剖』は何度も読み返したはずだが出てこない。探すより早いと深川図書館へ。  8人を次々解剖した教授は、自分の専門分野の興味からこの残酷無比な解剖をしているが、この時期九州大には在籍していないので入手した写真帖に写真はなかった。その教え子で生体解剖の発案者である見習士官は、まさに昭和六年卒業なので、学生の中にいるはずだが名前が見当たらない。アメリカ兵の血液で南京虫の除虫剤を作ったこの男は、事件の二ヶ月後に焼夷弾の直撃を受け、片足切断のあと破傷風で死んでいる。写真帖にはやはり関係者もいた。解剖実習室を提供した解剖学主任教授。直接手は下さなかったが、現場で見ていて臓器をただちに標本にすることを部下に命じている。終戦後飛行士の痕跡を消そうと画策。後に”医学のため執刀教授がせめて記録を残してくれていれば”などと発言し、医学馬鹿ぶりをさらしている。後の付属病院長や、事件後、教授の総辞職を決めた後の医学部長は、この14年後、教え子の発案からなる猟奇事件に巻き込まれるとも知らず卒業写真帖に収まっている。 日本中が追い詰められていた戦争末期、総長が海軍大将という状況、さらに学内の封建的空気のなかで、心ならずも巻き込まれて行く人達の姿は、どんな時代でもこの頃よりはましと思わされる。残る20人の捕獲搭乗員のうち8名は福岡大空襲の翌日、報復として惨殺された。4人を切りまくった大尉は前日その空襲で母を失っている。


4某日2 屋台

O君と木場公園で軽く花見をした後、洲崎の遊郭跡を観たいというので案内する。以前荷風の撮影できた頃より新しい住宅が増えていたが、かろうじて残っているカラフルなタイルや、屋号のレリーフが残るモルタル建築を見て周る。『洲崎パラダイス赤信号』56’(日活)の中で轟夕起子が営む飲み屋は、今は不動産屋に代わっているが、並びの店は当時のままのようなので入ってみると、幅が一間無いくらいの、まさに鰻の寝床。戦後ここに屋台を並べていた人達が、そのまま店にしたそうで、細かく並んでいるが持ち主はそれぞれ。なるほど屋台に客が座ってキツイくらい幅である。さらに共同トイレを作るため一軒につき20センチずつ狭くなったという。下町育ちの気の良いお母さんの話を聞きながら、昔、岐阜の陶器工場にいた頃、1,5キロ歩いて通った飲み屋を思い出していた。 四メートルくらいのカウンターがある小屋であった。御主人は元々ラーメンの屋台を引いていたが、その場所に落ち着く事に決め、材木をつぎ足しつぎ足しして、鉄骨にビニール張りの小屋にしてしまった。床を張り、しまいには大きなゲーム機まで設置していたが、そこまでして何故かタイヤはついたままというのが可笑しい。新メニューの平仮名が一文字逆に書いてあり、云ってあげようか迷ったあげく云えなかった私だが、御主人に酒器に春画の絵付けをする、内緒の仕事を持ちかけられた事がある。その時は岐阜を去る事が決まっていたので断ったが、是非私のキャリアに加えたかったと未だに残念なのである。


4某日1 海と毒薬

夢野久作のドグラマグラを制作する場合に、参考になりそうで入手した九州帝國大學醫學部寫眞帖は、厚さ10センチ以上ある卒業アルバムである。後書きの編集委員の山田某によると、九大醫學部に入学したという浮き立つばかりの喜びの、やうやく落ち着いてきた來た頃、今から卒業記念アルバムの計畫を立て、写真を撮っておけば、卒業間近くなって慌てる事もないので〜と入学そうそうから手回しが良い。 貼ってあるのは学長から教授連、その他食堂、海水浴、講義の様子や、診察、手術の光景などである。最後に『昭和六年三月七日 第四内親王御降誕の歡喜の放送をきゝつゝ』としめられているが、これは満州事変の年であり、さらに14年後、ここ九州帝大医学部では、B29乗員捕虜8名に対する生体解剖事件(及び肝臓試食疑惑事件)が起きている。この事件をもとに遠藤周作の『海と毒薬』が書かれ、上坂冬子『生体解剖−九州大学医学部事件』にも詳しい。 写真帖には肖像写真の伝統にのっとった、自筆サイン入り教授連の写真が貼ってある。学生の名もそれぞれ判るようになっているのだが、後年の事件とはいえ、関係者がいないか調べたくなるのを抑えがたい。(サインが判読しずらいが、この二年前に転任してきたはずで、事件に関わった後の解剖学主任教授らしき人物がいる)四回の解剖のうち最後の肝臓摘出は病院ではなく、解剖実習室の解剖台で行われたというから、ここに写っている解剖台が使われたのかもしれない。