谷崎潤一郎


中学生の私が深夜、光りが漏れないように十四型テレビごと布団にくるまり、画面から二

十センチの距離で見たのが大映お得意の谷崎物であった。京マチ子、若尾文子、安田

道代、叶順子。つまり裸が出てきそうなので見ていた訳である。文庫本を買ってきては授

業の間にも読んでいたが、そうした場合、授業内容とかけ離れているほど読書に身が入

るというもので、仮に持ち物検査があったとしても、教科書に載っている文豪の作品なの

であるから堂々としたものである。もっとも老人の性を描いた「瘋癲老人日記」を授業中に

読む中学生という物もあまり良いカタチとは言えないが、谷崎作品には、まだ見ぬ世界の

秘密が描いてあるとふんでいたわけである。 


「細雪」や「卍」などに出てくる関西弁があまりに印象的で、始め関西人と思い込んでい

たが、実際は明治一九年、日本橋区蠣殻町(現・人形町)に生れている。明治四三年、

「刺青」により文壇に認められ、その唯美主義、耽美主義的作風を永井荷風に激賞され

る。「四十を越す頃まで、私の第一の夢は洋行にあった。」という時代が続き、大正三年

の「饒太郎」では「ああ己は西洋にいきたいな。あんな荘厳な、堂々とした婦人の肉体を

見る事の出来ない国に生れたのは己の不幸だ。」と言わせている。関東大震災の後は

関西に移り住み、しだいに純日本的美の世界にのめりこんでいく。作風も「痴人の愛」

以降、変化していった。千代子夫人の義妹(ナオミのモデル)に惹かれた谷崎は夫人に

同情する佐藤春夫との間に確執を生じるが、千代子夫人と佐藤春夫の結婚を、三人連

署の声明文として発表し、世間を騒がせている。昭和十年より「源氏物語」の現代語訳。

続いて戦中も「細雪」を書き続けるなど、華麗な日本美の追求に執念を見せる谷崎だっ

たが、創作のイメージには当時の夫人、松子の存在が大きく貢献したと云われている。


晩年は「鍵」(昭和三一)「瘋癲老人日記」(昭和三六)と老人の性を主題とした作品を

発表。特に「瘋癲老人日記」は数え年七六の作というから驚きだが、当時の作者のポー

トレートを見ると、ドロリとした妖気さえ漂っている。 しかし一時は悪魔主義、変態性欲

的とも云われた世界を描いていながら世間的には常識人だったようで、下町育ち特有

のバランス感覚の持ち主だったのであろう。故郷東京については、批判的でもあったが、

生前のインタビューを聞くと文豪然とした雰囲気と違い、下町のご隠居のようにも聞こえ、

終生江戸っ子としての誇りを持ちつづけた人物のようである。 


そんな谷崎作品の、私は中学時代を通じて熱心な読者だったが、授業前に持ち物検査

があった。カバンから谷崎が何冊出てきても私は悪びれずにいたが、複雑な表情を浮か

べていた教師は、急遽その授業を私の朗読の時間に決め、ついこの間までハナを垂らし

ていたような顔をした同級生の拍手と歓声の中、同性愛を扱った人妻の告白「卍」を読む

事になった。以後、私の関西弁に対する嫌悪感を払拭するには、漫才ブームの到来を

待たねばならなかった。

タウン誌 深川 (クリオ・プロジェクト)より