明日できること今日はせず 

身辺雑記より:九代目團十郎と東銀座を歩く


2010・1/27

そうこうしていて編集長より、その次の特集人物が決まった旨のメール。 アダージョは、私が提案した人物が特集となったのは過去二人だが、この人物も、私が昨年より進言しつづけた人物で、背景として、さる施設を使おうとすると急ぐ必要があった。ただこの人物を制作するには、乗り越えるべきハードルがあまりに多く、しかも高く、決まったら決まったで、慌てることになるな、と考えていた。そこで私は、決まってもいないのに、すでに人物の評伝を2冊入手し、読み始めていたのである。しかし結果、よけいビビることになってしまった。どうするんだ私。

※歌舞伎座 5月建替え着工


2010・2/1

K本へ。朝からの降雪の情報のせいであろう。お客は少ない。数日前から妙に気になっている、壁にかかった今年のカレンダーに目が行く。あまりにもデフォルメされた画であったが、ジーッと視ているうち、まさかなあ、と思いながら近づいて解説を読むと、果たして、私がアダージョで提案し、明日からプレッシャーと戦わなければならない、実にその人であった。

※歌舞伎座発行。
※河原崎権十郎時代の團十郎


2010・2/2

4月号は私が提案した人物なので、人のせいにもできない。2月号の色見本ができたばかりだから、まだ猫を噛むほど追い詰められてはいないが、窮鼠のパワーに期待するしかない。色見本を届けた足で、次号のロケハンをしているのだから、明後日の私をかなり心配している、本日の私であった。

※京橋の中央公論新社に、前号の色見本を届けた足で歌舞伎座のロケハンに。


2010・2/3

次に制作する人物Dは、幕末から明治にかけての人物であるから、写真資料が潤沢にあるとはいえないが、戦前に作られた豪華な写真集の存在を知った。しかも江東区の図書館に1冊あることも判った。貴重な物ゆえ貸し出しは不可だが、閲覧は自由だという。図書館にはコピーサービスというものがあるが、できればカメラで複写したい。旧知の江東区の職員に、複写の許可がでるかメールで訊いてみたが、実物をすぐにでも観たくて、メールの返事を待たずに出かける。普段の出不精が、こういうときは一変する。 行ってみると、空調の効いた閲覧室は、先客の老人が1人いるだけであった。写真集は、初版は大正時代に制作されたが、震災で多くが失われ、昭和の始めに再販されたものであった。このためにわざわざ漉かれた紙にコロタイプ印刷された物で、制作者が、オリジナルと遜色の無い物ができたと自賛しているだけあった。  この人物Dに、何故興味を持ったかというと、ある雑誌で数カットの肖像写真を見たことに始まる。なぜ魅かれたか、それは良く判らないが、天才バレエダンサー、ニジンスキーの肖像写真を始めて見た時と似ていて、何か形容しがたい、異様な何かが立ちのぼっていた。溜息とともに閲覧を果たしたが、さてここからがお役所である。コピーサービスはできるが、カメラによる複写はできない、という。つまり前例がない、というお馴染みの状態なのであろう。では誰に許可を得ればいいか聞いても、口の中でゴムを噛んでるような答えしか返ってこない。とりあえず引き上げる事にした。

※発行『舞臺之團十郎』(舞臺之團十郎』刊行會)大正12年   編集 伊原青々園/安部豊


2010・2/6

このところ、次に制作する人物Dの、評伝その他を読んでいるのだが、先日、近所の古書店で入手した特集号の中で、残された写真について書かれている一文に目が留まった。 この人物の写真は、見る側の期待や欲求に応えていないという。(確かに、先日図書館で閲覧した写真集でも、その多くが二コリともせず、力の入ったポーズをとったカットは数えるほどしかなかった) 本人が写真嫌いなことは有名なのだが、そういうことではなく、ここには“美ならざるもの”がある。という。“美たりえないもの”それまで対象たり得なかった物が呈示されている異様さが感じられる。何も美化されることなく、ただ眼前にあるものがただ写っている。そこにあるものがただ写ってしまっているという不思議な感覚であり、そこからDの写真が持つ独自の迫真性や奇妙な切迫感が生じている。と書かれていた。これはまさに、私がDの写真を見たときに感じたことであり、ニジンスキーの写真を始めてみた時に感じたことと似ている。 問題はニジンスキーの時がそうであったが、人物のことを何も知らずに、そんなところばかりに反応してしまって、その気になってしまうから後が大変なのである。初めて知ってから1年で個展を開いてしまったニジンスキーの場合は、私が勝手にやったことだし、個展は観たくない人は来ないが、アダージョは都営地下鉄駅に置かれるので、そうもいっていられない。  この人物も銅像の類が複数残されているが、有名彫刻家が制作した像を、これまた巨匠が、ボロクソにけなしているエッセイを見つけて、作る前に読まなければ良かった、と後悔しているところである。どこぞの銅像がどうだのといっていたバチが、さっそく当たってしまった気分である。

※『歌舞伎 研究と批評22』 特集九代目市川団十郎(歌舞伎学会)  写真と沈黙-九代目団十郎の遺産-神山彰

『團十郎の首』 高村光太郎


2010・2/10

近所の古石場図書館に行くと、コンピューターの検索では確かに収蔵されているはずの本を、探してもらったが見当たらないという。深川図書館にもあるので、これから取りにいくというと、問い合わせしてくれたのはいいが、そこにも、収蔵されているはずの本がないという。しかたが無いので予約をして取り寄せてもらうことにした。万引きでもされたのだろうが、こうなると、検索しても意味がない。江東区のHPでは“他区及び都立図書館等から図書のみ取り寄せ”しか謳っていないが、複写取り寄せもできるし、私の場合必用な、写真複写をしてくれる図書館を、探してもらって取り寄せることも可能だそうだが、公にしていないのは、業務が増えるのが面倒なのだろうか。 先日深川図書館で館内閲覧のみで写真複写は駄目といわれた資料だが、著作権云々といっていたが、古すぎて、とっくにそんな物は切れている。版は相当小さいようだが、復刻の復刻が、10年ほど前に出ていたことが判り、図書館、研究機関用らしく、探しても無いので、都立の図書館から取り寄せてもらうことにした。~
~最近、浮世絵を眺める機会が多い。浮世絵は型にはまったもので、こんな顔に見えているはずがない、と思っていたが、先月来、古い日本画から実在した人物の実像を読み取ろうと眺めるうち浮世絵も思っていた以上に、リアリズムの世界だということが解ってきた。

※アダージョ19号の松尾芭蕉像は、門弟が描いた肖像画だけを参考に制作した。


2010・2/11

人物を作る時、よく知っている人なら別だが、そうでない場合、その人となり、背景、歴史など、最低限は知っておきたい。色々調べながら、同時にどういう画にするか、イメージ作りのための手掛かりを探すわけである。 これから制作に入る人物は、調べるほどに興味はつのるばかりだが、一方知れば知るほど、後ずさりたくなる。朝起きても、その気分を引きずっており~
~帰宅後、この辺りで考え方を変えることにした。人物に関する文献など、しばらく読むのを止め、肖像写真から受けるイメージだけに集中することにした。明日から制作に入ることにする。


2010・2/13

頭部の制作に入る。何度か書いたことだが、日本人の顔で、今では失われたタイプの顔が、長い顔である。大きな耳に、長くしっかりとした鼻。食べ物との関係があるのかどうか、とにかく今ではめったに見ない。制作に入った人物が、これが飛び切り長い。写真が残されている江戸末期から明治の頃は、いくらでもあったはずだが、現在だったら、道を歩いていたら、振り返られるのではないか、というほどの長さである。私がこの人物を知らなかった頃、外国人が制作した石版画を見たことがあったが、妙な扮装をしていたこともあり、日本人を何だと思っている。と思った程である。しかし、長くはあるが、実に風格のある立派な顔である。何故こうも立派なのか、その理由を事前に知ろうとして、色々調べていたが、あまり知ってしまうと荷が重くなりそうで、怖いものを知る前に始めてしまうことにした。何事においてもそうだが、適切な距離というものがある。私もさすがに、対象にただ闇雲に突っ込むべきではないことを知っている。それにしても、興味が尽きない人物である。

※スモリック作『市川団十郎』(明治7年頃)


2010・2/14

制作中の人物Dは、巨匠が制作した像が、私が知っただけで2種あるが、どうも私がDの写真から受ける印象と違うのである。各先生の生年月日を調べてみたら、間違いなく生前のDを観ている。『こいつはいけねェ』。観ていないのなら、残された写真だけを参考にしたのだから、私と条件は一緒だが、本人を観ていたなら話は違う。1人の彫刻家など、制作現場でDの未亡人がアドバイスまでしていた。これは私の目が間違っているのか、とも思うが、もう1人、これまた特別巨匠が文章を残していて、Dを若い頃随分見たらしく、Dの像を作るのが、長年の念願だったそうで、この巨匠が前述の二人の作品に対して、ボロクソにいっていた。そして、Dに対する印象が、少々調子に乗っていえば、私と全く一緒なのである。そして有り難いことに?事情は解らないが自身のD像は未完に終ったようなのである。ホッと胸を撫で下ろす私であった。こんなものがあったら気になってしょうがない。

※新海竹太郎作 『暫』(大正6年)浅草公園。 朝倉文夫作 『市川團十郎』(昭和11年)歌舞伎座/国立劇場

※新海竹太郎作 『暫』

※前述の『團十郎の首』高村光太郎


2010・2/17

制作中のDが亡くなって十年目の、雑誌の記念号を入手した。全体的にまだ生々しいが、網点のないコロタイプ印刷の口絵は、一点が小さいとはいえ、かなりの数のポートレイトが掲載されており嬉しい。それにしたって相変わらず長い顔である。 未亡人の寄稿文を読むと、家庭内ではただの釣りバカに近い。立派だ、とは誰しもいうので、女房ならではのエピソードを、ということなのだろうが実に面白い。借金取りを怖がり、家の奥で小さくなっていたなど、意外な話も多いが、誰の話かいわないでいると、さっぱり面白くないので、この辺にしておく。  
もう一つ手に入れたのが、Dの直筆の、滝が描かれた掛け軸である勿論制作上、なんの資料にもなりはしない。確かなのは、こんなものを入手し、あげくに作ったものがお粗末では、あまりに馬鹿だということである。背後にダラリと垂れ下げた掛け軸に妙な気配を感じながら、“責任取ってくれよな”とたまに振り返る私であった。

演芸画報 大正元年九月号

※瀑布図


2010・2/19

藤田まことが亡くなったが、この程度でどこが馬面なんだ、と思いながら本日もDの頭部と向かい合う。入手した掛け軸のおかげかどうか、大分感じが出てきた。しかしどう見ても某公園の銅像と顔が違う。  今月25日配布号の特集人物は、出来上がった作品を、見せる人ごとに意外な顔をする。それは世間の銅像とイメージが違うからである。本文にも某所の銅像が小さく写ってしまっているが、Dの特集の時は、銅像の写真は載せないようお願いしよう。エライ先生の銅像だけに、比べてみたら、表紙のDはおかしいじゃないか、と思われるのも迷惑である。 Dは力が入っていないところに凄みがあるので、公園の先生はまったく判ってない。別の大先生もDは“決して力まない。力まないで大きい”といっているし、この銅像に対しては“まるで披け殼のように硬ばって居り”といっている。ウィキペディアによると、この作者は、軍人になろうとして士官候補生の試験に落ちて、がっかりしていて、遊びで作った木彫りの馬が隊内で評判になり、上官に勧められて彫刻家志望になったそうである。おかげで、○○親王だ、元帥だ伯爵だと、エライ人を、エライように作るのが得意なので、こういう表現になるのであろう。彫刻家を目指すきっかけからして、とんだ野暮天である。 それにしても銅像の建造には、未亡人や、物事が判っている人が係わっていたはずなのに、どうしたことかと思うのだが、Dを実際観ているだけに、そのオーラに当てられ、当時の人にはああ見えたのだろうか。

※この時点では、私も判っていないようである。

まさに、そういうことであろう。 当時の舞台を観た人々は、口を揃えて空前にして絶後だったという。九代目とほぼ同時期に亡くなった五代目菊五郎以後、昔は良かったという老人を“團菊爺い”という。


2010・2/25

明け方目が覚めると、作品に乾燥を防ぐための東京都推奨ゴミ袋を被せずに寝てしまい、表面が乾燥し始めていたので、慌てて霧吹きで水をかけ、袋を被せ、元に戻るのを待つことにした。~  ~夜のアダージョの編集会議までには、乾燥手前まで持っていきたかったが、片手と、尺八が間に合わなかった。


2010・2/27

只今制作中の人物について、誰といえないのは、身辺雑記としては困ったものである。私の場合、誰かを作るとなれば関連の本しか読まないし、考えることも、そのことばかりになってしまうので、制作中の人物に触れないとなれば、書くことがほとんどない。後はせいぜい、K本かT屋で飲むくらいの話だが、それもちょっと大人しくしていると、制作中の人物のことを考えているのだろう、などと常連にいわれる始末だが、事実その通りなのである。先日も知人から、誰を作っているか知っているからいいようなもので、そうじゃなければ、雑記を読んでも面白くないだろう、といわれたばかりである。それでも、たとえばアダージョの今号などは、やはり芭蕉だったか、という人もいたから、中には判る人もいるようである。
目が覚めれば、昨日までのことは悪夢で、すでに首は完成しているのではないか、と真っ先に手を伸ばしてガッカリする。とうことをくりかえしている。例によって、完成が見えてきたと思ったら、駄目だ、というくりかえしだが、小さい物なので、駄目になるときは、あっという間で、つい昨日も、数週間作っていたDの首が、作りはじめに戻ってしまったが、色々な蓄積が頭に入っているし、なんとなく人の形をしているだけになってしまった粘土にも、数週間の念がこもっている。おかげで一日で回復した。 先日オークションで落札した、Dの娘婿の、直筆の絵の色紙が届いた。この人物は元銀行員である。十代の頃は、銀行員の歌なんて誰が聴くか、といっていた私だが。

※市川三升 本名:堀越福三郎 →五代目市川三升 → 十代目市川團十郎(死後追贈さる) 七代目松本幸四郎の長男を養子に迎え、後に11代團十郎に。


2010・3/5

制作中のDについて、私には他の人と、何故際立って違って見えるのか、その辺のことを、すっかり解明し、教えていただけそうな研究者の方がいて、メールを出したらさっそく返事をいただいてしまった。そしてDがかつて住んでいたのが、某ウナギ屋の斜め前あたりだと、教えていただいた。 

※明治大学文学部教授 神山彰さん

※築地 宮川本廛


2010・3/6

雨の中、神保町を本の探索をする。今日は深川図書館で件の写真帖を借りることになっているので嬉しくてしょうがない。大型の写真帖で荷物になるし、こんな雨の日はうっかりすると、格安の久保田万太郎全集あたりを見つけてしまうものである。そこそこにして図書館に向かう。3階で受け取り、芭蕉像の前を通り、コードレスのマウスが、やたらと電池を食うのでコーナンで電池を買い、小津安二郎生誕地のプレートの前を通って帰宅。すぐ制作にかかりたいところだが、そこをあえて我慢し、K本で飲むことにする。作りたい物が待っているのに、わざわざこういうことをするのが、私の変態的なところだが、美味い物は、腹を空かせたほうがより美味いに決まっている。 ~
~本日は写真帖を、あえてバッグに入れたまま取り出しもせず、飲んで寝てしまうことにする。楽しいことが間違いないことを目の前に、わくわくしながら飲む。こんなに美味い酒はないのである。


2010・3/11

肝心の首を制作する場合、3回は完成寸前までいく。完成が近くなると、毎日眺めている肖像写真から、それまで見えなかったものが見え始め、目が手を追い越して、これじゃまったく駄目だ。ということになる。これを3回ぐらいは繰り返すわけである。そんな時、出来たも同然などと書いてしまい、恥ずかしいことになるのだが、同じ写真でも、当初とは感じ方が変り、違って見えてくるのでしょうがない。特に今回は、決定的な写真資料である写真帖が、かなり作っていた段階で家に来たので、おかげで案の定、二転三転した。 この人物は、某彫刻家がいうように、力がはいっていなくて大きい。そこが奇妙でさえあるのだが、写真帖で解説している坪内逍遥は、写真の撮られ方が上手ではない、という意味のことをいっている。それに引き換え次の世代は、見る側を意識した上手な撮られ方をする、という。それは当時の写真の感材の感度の違いにもよるだろう。ほとんど外光を利用したスタジオ撮影のようだが、それでも感度が低ければ、ジッとしている時間は長くなる。よって昔の写真は動物と子供の写真が極端に少ない。逍遥は“Dのあの爛々たる大きな目をぐっと睨ませて、如實に撮影し得たと想像して見たまへ”といっているが、一瞬の表情を作ったまま固まっているのは大変だろう。 逍遥に、この人物の生きた肝心な様子が写っていないのが残念だ、といわれると想像してしまうが、本人は、たとえ貧弱に写っていても、本当のことなら文句もいわなかった人のようで、逆にデフォルメした表現をした絵師を、出入り禁止にしたそうである。私も出入り禁止にされるようなことは、なるだけ避けたいと思っている。

※(正確には) 誠に九代目のあの爛々たる大きな目を写真に於ける今の幸四郎(七代目 松本幸四郎)のと同様にぐっと睨ませて、如實に撮影し得たと想像して見たまへ。あの大きな厚い唇、あれを今の梅幸(六代目 尾上梅幸)の土蜘蛛式、鬼女式に思ひ切って引き歪めて撮影し得たと想像して見たまへ

※豊原國周

※この時点では逍遥その他、当時の人々の語る團十郎像に惑わされず、あくまで写真から得る情報だけを基に制作するつもりでいた。


2010・3/14

母と電話で話していて制作中のDの話になった。祖母がよく頼んでいた鰻屋の斜め前あたりに住んでたらしいよ。というと、昔、結納を済ませた後、両親と父と四人でその店で鰻を食べたそうである。
ようやく首が仕上げに入った。身体は表紙用としては意味があるが、肝心の仕事着でなく普段着なので、人物像としては面白くない。よって写る部分しか作らない予定。羽織を着せるので、先日、死んだ犬の法事で、喪服を着たままK本で飲んでいた建設会社のMさんに、谷崎に続いて今回もまた、羽織の紐をお借りしたい、と頼んでおいた。 Dについて、ちょっと知りたいことがあり、いい加減なこともできないので、関係者の方に質問したら、Dの三代後のDに、電話で直接訊いて頂だいてしまい、恐縮する。まったく冷や汗ものである。やはり、昔の写真感材の感度の低さは、被写体の表情にも影響があっただろう、ということである。三島由紀夫のように、撮影時、いくらでも瞬きしないでいられる、という妙な特技の持ち主なら別だろうが。  来週中には、背景の撮影にいく予定である。都合がつけば、件の鰻屋で鰻でも食べてみたいものである。

※團十郎の肖像写真から荒事の成田屋の表情が掴めないことと、なるべく歌舞伎の約束事に触れずに済まそうと、黒紋付に山高帽で、文明開化期の團十郎を表現しようと考えていた。

※歌舞伎における寄り目は、左右対称ではなく、陰と陽ということで、片方が真ん中に、片方はそこまでは寄らない。

※国立劇場宣伝部のカメラマン小川知子さん

※当代市川團十郎丈

※感材(当時はフィルムでなくガラス乾板)の感度の低さは、遅いシャッタースピードとなる。幕末期の肖像写真の表情やポーズを硬くしている原因はこれである。


2010・3/15

ここへきて迷いが生じる。坪内逍遥は、Dの写真には、本来のDの表情は写っていないという。(異様ともいえる存在感は充分だが) 某公園の銅像は、身体こそ未亡人の監修の下、弟子に同じ格好をさせてモデルにしているから良いのだろうが、当時の識者もいうように顔がいけない。どうみても我が家にある写真帖のDと造形的に違いすぎる。しかし、作者は生前のDを観ているはずで、そこを表現したかった、としたら気持ちだけは解る。 当時の写真感材の感度では生きた表情を捉えるのには無理がある。先日のDの御子孫も、その点を指摘されていた。一方Dは、自分の特徴を、迫力を出そうとデフォルメした絵師を出入り禁止にしており、少々さえなくても、事実にこだわる人である。私は常に本人にウケたいと思って制作している。それがたとえ松尾芭蕉のように、何百年前に亡くなっていても同じこと。悩むところである。  それともう一つ、どういう格好をさせるかである。色々考えて結論を出したつもりだったが、ここへきて欲が出てきて迷い始めている。一番大変な首が完成したせいである。 悩むといっても御馳走を目の前に、どれを食べようか、ということに似ているのだが。幸いこれには締め切りがある。悩んでいるのも明日一日、とリミットを決めた。


2010・3/16

図書館に行く前にT屋で朝食。カウンターには、いつもの運送会社のKさん。かみさんが、「首もうできたの?」「だいたい」。随分前からそういってる、といわれてしまう。今日は図書館へ行って、今日中にイメージを決めるつもりである。「今日Tさんは?」昨日タクシーの夜勤明けで、明け方から飲んでいたそうだが、T屋に来た時にはすでにベロベロだったらしい。薄い赤色の花模様の皿がある。Tさんその模様を、マグロの刺身だと思って箸で摘もうとしていたらしい。一休さんの屏風の虎じゃないんだからと笑う。Kさんが寮まで送ろうとして、後ろを振り向いたら交差点で、立ったまま寝ていたそうである。60をとっくに過ぎて危なくてしょうがない。 図書館に行き、関係図書を見ながら熟考するが決められず、3冊ほど借り帰宅。結局、羽織を着せることになりそうである。同姓同名が12人もいるが、制作中のDだ、ということを表すには帽子を被せるのもいいが、せっかく作った頭が隠れるのと、顔に影が出来るので、撮影時に注意が必要になる。TVの市川海老蔵主演の『霧の旗』を点けたまま首の仕上げをする。何故か妙な気分である。


2010・3/19

制作中のDは、彫像が3体残されているという。検索したら、唯一Dの存命中に制作された、女性彫刻家制作の半身像を見つけた。それにしても、3体並べたら、同一の人物がモデルとは思わないくらい違う。 具象彫刻というものは、リアルに作ってあるので、モデルをそれなりに正確に写すものと、なんとなく思っていたが、私の手元にある写真帖とも大分違うように見える。デッサンもろくすっぽやったことのない独学者の私からすると、私の目がおかしいのか、と思うのも無理はない。前述の男性彫刻家の作品は、偉い人を偉いように作るため偉そうだが、女性彫刻家はまるで違っていて、なんとも頼りない表情で、あきらかに男性作家とは、制作のテーマが違う。私はこれが一番好きかもしれない。  随分時間をかけてきたDの首だが、明日は写真帖を返さないとならないし、いい加減、時間が無くなってきたが、ここへ来て私の病気が出た。これを書いている今も、頭の中では、今に至って余計なことは止めろ。と思っているのだが。原因は、先日も書いた坪内逍遥がいう、これらの写真には、本来の表情が写されていない、という箇所である。“特にあの立派な目が劇的には活きていない。あの爛々たる大きな目をぐっと睨ませて、如実に撮影し得たと想像して見たまへ、あの大きな厚い唇を思ひ切って引歪めて撮影し得たと想像して見たまへ”。そして決定的だったのは、先日、Dの御子孫の、当時は写真を撮るのに時間がかかったため、というご意見を伺ってからである。写真の中のDは、目の大きいことがバレないよう、注意している、とさえ思うほど、大きな目を見開いた写真がない。  ここに至って表情を変える、というのは危険すぎる。しかも、ポーズから衣装から、方向転換をしなければならないのだ。だがしかし、私が前述の彫刻家の巨匠お三方に、勝っている所があるとすれば、亡くなって100年以上経っている今、都営地下鉄のフリーペーパーの表紙にしようと考える酔狂度合いであろう。だとすれば、逍遥の挑発に乗る、というのも有りということか。

※ラグーザお玉

※過去の三人の具象彫刻家が、それぞれのイメージで、それぞれの表現をしていたことを知ったのも大きい。


2010・2/20

最近、朝T屋に行くと、かみさんや運送会社のKさんに、まだ頭作ってるの?といわれる。もうできたよ。後は仕上げだけ。と何度もいっているからである。実際、完成していたはずだが、モヤモヤしたものが取れずにいた。昨日、返却しなければならない写真帖の、坪内逍遥の解説を改めて読んでいて、モヤモヤの原因は、やはりこの一文だと気付いた。なにしろ、写真を参考にするしか方法はないのに、そこに肝心な物が写っていないというのである。確かに、当時Dについて書かれた物を読んでも、写真の中のDとはイメージが違う。写真嫌いだというので意識的にそうしているのか、または、ニジンスキーが舞台上でジャンプした写真が残っていないように、当時の写真感材の感度が低いゆえの、長時間露光の問題もあるのか。はたして“あの表情は”長い時間は無理と、三代後の御子孫から間接的に伺った。 それならば私が作ろう。もう1人の私が止めるのも聞かず、たった一晩で表情が一変。スリル満点である。  本日目が覚め、恐々首を手に取る。確かに写真とは違うDになっていた。T屋で毎朝のように顔を合わす運送会社のKさんや、タクシー運転手のTさんには、すでに二、三回首を見せているが、今日は余りの変化に唖然とさせることができた。この愛すべき酔っ払い連に“よくできてる”などといわれているようでは、私は駄目であろう。  帰りにマンションのエレベーター脇の壁に貼り付けてある鏡を見たら、髭の中に白髪が2本。昨日は無かったはずなのだが。


2010・2/23

ようやく身体を作り始める。急遽イメージを変更したおかげで、刀や尺八まで作らなければならない。写る部分しか作らないので、いずれも先っちょしか作らないが。 やはり迷った時は、危険な方を選ぶべきである。やっちゃいけないことは楽しいし、身体に良くない物は美味しいに決まっている。といいながら、実際は、ヒゲに白髪が出るくらい迷ったのだが。

※表情を変えたことにより、歌舞伎の扮装をさせるしかなくなり、歌舞伎の約束事に触れずに済まそうという訳にはいかなくなる。勧進帳の弁慶と花川戸の助六で迷ったが、弁慶は着物の模様が複雑であること、歌舞伎座の最終公演で、十二代 團十郎丈が、助六を演じることにより『助六』を選ぶ。


2010・3/24

 夜アダージョの編集会議。ライターの藤野さんが、Dの顔があまりに長いので、ジャイアント馬場、その他、長いといわれる人と比べたら、さらに長かったという。


2010・3/26

乾燥に入る。同時に刀や尺八の先っちょだけ作る。どうやら次号のアダージョの特集人物は二本挿しのようだし、刀を粘土で作らず、模造刀を入手して合成するのもいいかなと考えるのだが、“円月殺法”や“諸羽流正眼崩し”などと、部屋で1人刀を振り回してニコニコしている自分を想像して躊躇している。  本日は、義太夫三味線奏者の鶴澤寛也さんが、神楽坂に稽古場を開いたというので、お邪魔することになっている。できたものを乾燥機に放り込んで、なんとか一時間遅れて到着。~
~和風の戸棚に染付けの皿などが並び、上に坂崎さんが贈られたという浮世絵が飾ってある。よく観るとDである。しかも12人いる内の9D。まさに制作中で、本日も披露しようと持参した首の人物である。K本のカレンダーに始まり、最後にこれとは、よくできた話である。


2010・3/27

背景の撮影。ロケハンで一度撮影し、本日二度目である。しかし人出が多く、落ち着いて撮影ができない。一本だけ撮る。現像してみて駄目なら出直すことにする。帰りに着彩用絵の具を買いに行く。


2010・3/28

背景の撮影は人ゴミを避けながらだったこともあるが、なにより光の調子が良くなかった。明るい曇りか、晴天の午前中が良いようである。いずれにしても午前中なら、背景の建物が日陰になり良さそうである。本日中に着彩を残し完成させる予定。今回制作の9Dは、生前彼を観た人や、特に坪内逍遥が、あまりにも写真と違う、というので、つい挑発に乗った形で、写真では残されていない表情の9Dにしてしまった。一ヶ月以上かけ首を完成させ、締め切りも迫っているというのに。あの時の私は、“腰抜け”といわれたバックトゥ・ザ・フューチャーのマーティーのような状態だったかもしれない。  当時は動きのある写真を撮ることは不可能だったので、9Dとしてみれば、記録のつもりで被写体になっていたのかもしれない。そう思うと、確かにジッとしているから早く撮ってくれ、とただ立っているだけのような写真が多い。そのせいか、ことさら大きいといわれる目も、遠くを見るように、むしろ目を意図的に細めているようにさえ見える。写真嫌いだった、という話も聞く。しかし中にはポーズを取った写真もあり、それは写真感材の発達、高感度化を待ったように、その多くが、すでに全盛期が過ぎつつある頃に集中しているようだが、ひとたびポーズを決めたとなれば、痩せてどちらかといえば貧弱な身体なのにかかわらず、まさに磐石の構えで、9Dが未だに特別な存在だということを、容易に想像させるものである。


2010・3/30

平日なら人はいないだろうし、午前中なら背景の建物が日陰になり、フラットな光線状態で撮影できるだろうと、朝の6時半に家を出る。前の晩、たいして食べていなかったので、6時から開いているT屋で朝食をと思ったが、夜勤明けのタクシー運転手のオヤジ達が、すでに宴もたけなわの可能性が高い。目立つことが嫌いな私は、つい飲ってしまって同化しかねないので、なか卯で朝定食を放りこんで出かける。 現場に着くと前回と違って、さすがに人通りも少なく、落ち着いて考えることができる。以外と扱いが難しいな、と数カット撮り、建物を正面からと思ったその時、バキュームカーが到着し、正面玄関にピタリと横付け。まるで、撮影に間に合った、とポーズを取っているかのようである。今時、バキュームカー?と思ったが、綺麗な青い車体なので、給水車かなにかだろう。陽が当たる時間まで間があるし、作業が終るまで待てばいいのだが、こういう場合、私はそうは思わず、これは撮るな、ということだろうと考える。なにしろ、あまりなタイミングである。このまま正面から撮っても良いことはないはずである。間違いは無い。結局、バキュームカーを避け、建物の部分をフィルム1本撮影し帰った。丁度いつもT屋に顔を出す時間なので、運送会社のKさんの顔を見て帰宅。 午後Dの塗り残し部分を仕上げ、撮影。


2010・4/1

やはりバキュームカーを運転していたのは、創作の神様であった。建物の真正面など撮らないで良かった。無事完成する。今晩一晩置いて、データは明日送ることにする。 


2010・4/2

昨晩は最後の仕上げを残し、早めの祝杯を上げ寝てしまったので朝仕上げる。こんな時に限ってキーボードに水をこぼして壊す。田村写真からデザイン事務所へデータを送ってもらうことにして、とりあえず色見本を作りに田村写真へ。門前仲町駅前に自転車を停めて大江戸線に乗る。色見本を持って京橋の中央公論新社に向かう。これですべて終了。  HP開設10周年記念クイズだが、すでに二名の方から答えが送られてきた。お二人様共に正解。簡単すぎたかもしれないので、これ以降ヒントは無し。  銀座線で帰ってきてしまい、自転車を忘れる。前も、まったく同じことをしている。気分が良いので富岡八幡宮に寄り、大関碑を眺め、深川不動に寄って、自転車に乗ってコンビニで助六寿司を買って帰る。メールを見たら田村写真の田村さんから写真展の情報と、オークションで十一代目の市川團十郎の高麗蔵時代のサイン入り写真を落札していた。
というわけで、多少不自然な一日の後半であったが、本日入稿を終えた


2010・4/24  《制作ノート》

幕末生まれの歌舞伎役者、“劇聖”といわれた九代目 市川團十郎が以前から気になっていた。顔がやたらと長く、痩せて小柄。無表情で力が抜けているように見え、“荒事”の成田屋のイメージは、残された肖像写真からは伝わりにくい。それでいて、ひとたび形を決めたならば、その磐石の構えは、比類がないように見える。 独特のたたずまいは、天才バレエダンサー、ニジンスキーの肖像写真を始めて見た時と共通の何物か、を私に感じさせた。当時の目撃談によると、小柄な身体が、まるで舞台からはみ出すような大きさに見えたという。それはニジンスキーがジャンプをすると、空中で止まって見えた、というエピソードを思い出させる。超絶的な芸の持ち主は、物理学を越えた世界を観客に見せるものらしい。  歌舞伎座の改修工事が始まれば、アダージョで歌舞伎役者を扱う機会はないだろう。世の中が丁度インフルエンザ騒動の頃、睨まれたら一年間風邪をひかないと江戸時代のからいわれた、成田屋は市川團十郎を提案したのであった。九代目以前は、浮世絵でしか姿が残されていない。 始めに考えたのは成田屋十八番の中から『暫』の扮装の九代目が、歌舞伎座の屋根の上から、大太刀を振り回し、東京をニラミ倒して、インフルエンザはもとより、不景気や陰惨な事件、その他あらゆる悪をなぎ倒そうか、という場面であった。しかし、初代 團十郎が編み出したという隈取は、何処の誰だか判らなくなりそうだし、私には、あのような顔には見えないが、浅草公園には、九代目の『暫』の銅像がすでにある。それならば、と文明開化期の團十郎というイメージで、浮世絵師、豊原國周が描いたような、黒紋付に山高帽の九代目を考えた。これは伝統ある歌舞伎の約束事に触れないで済む、という、制作上の利点もあった。  見得の時に、目を寄せるのは歌舞伎の特徴ある表現の一つだが、相当数残された写真を見ても、九代目が“睨”んでいる写真は一枚も無い。人づてに当代の團十郎丈の「当時は写真を撮るのに時間がかかったため、にらみをしている写真がないのだろう、にらみの目は少しの間しかしていられないもの」というご意見を伺った。そして最終的には、坪内逍遥の九代目の目は実際は写真とは全く違う、という“挑発”に乗る形で、表情を作ってしまった。私は、常に本人に見せて、ウケるつもりで制作しているが、前述の絵師、豊原國周が、目を強調した絵を描いて九代目の逆鱗に触れ、出入り禁止になったエピソードを知っており、長時間かけて完成させた表情を、締め切りが迫る中決心して、一晩で表情を変えてしまった翌日、私のヒゲに白髪が2本現れていた。そしてこうなると、後は『勧進帳』の弁慶、もしくは『助六』にするしかない。 九代目は晩年、化粧が ごく控えめだったことは、モノクロ写真から伺えるが、工夫したことといえば、白粉との比較で白目が黄色く見えるため、白目を初めから黄色く塗っておいたことだろうか。背景は歌舞伎座だが、今号配布後、数日で改修工事が始まることになる。